わが心のBlog

by Hiroki Utsunomiya

日々の記 220404《アカデミー賞2022》

結局前月は一つの記事しか書かなかった。
ようやく心を亡くすと書く「」というものが次のセクションの「」となり(笑)、忙が猛になっただけだが、ココロの余力具合は全く違うので、ブログでも書いてみようという力も湧く。こうして一つずつ何かが好転していけばいいと祈りつつ。

でもプライベートは書けない。笑
今回は寝かした頃に書くのが丁度いい件を。


●Wスミス平手打ち事件を考える

まさに寝かせた方がいい件の一つ。アカデミー賞式典でプレゼンター・クリスロックのブラックジョークにWスミスが平手打ちした、あの事件だ。


オレはライブ、朝っぱらの生ライブを観ていた。


実はアカデミー賞は毎年恒例で観ている。笑
わが「心の学食」である、いきつけのバーで店主と朝からWOWOW中継を観るのが恒例だ。
(営業時間外に開けてくれる、毎年感謝である。)
で、まさに事件が起こるのだが、そのとき!


オレはメールをポツポツと書いていた


という、まさに決定的瞬間を見逃している。
LIVEの意味ねー。って程の不祥事をオレ自身起こしたが(笑)まさに「忙」の中仕方なしであった。
むろんその後画面はすぐに日本のスタジオに戻り、ジョンカビラさんの大写しとなった。そしてオレは「ん?なにがあったの」などとバーの店主の説明をうけることになる。笑


この事件でもっとも印象的なのは、
その後の炎上と本国アメリの捉え方と外国、もっと言って、日本国内の捉え方の違いだ。

同じ暴力でも
「ことば」の暴力に重きを置き、妻をかばったWスミスに同情するのが日本の多くの反応だった。
それに対し、本国アメリカはWスミスへの断罪が先の意見を上回った(感覚観測値)。手を出したWスミスが「明らかに」悪い、が上回ったのだ。のちにLA警察まで乗り出している。


この違いが印象的であり、そして不可解だった。
なぜだろう?
クリスロックのジョークは余りにも不用意であり、身体的であり、言われた者にかわり本人の正義をかざしたWスミスが、なぜアメリカでは批判されているのか。理解できるようで理解できなかった。というか、ほとんどクリスロックの「コトバの暴力」にお咎めナシの様相だからだ。
ここには日本とアメリカの決定的な違いのようなものを感じていた。なぞでありなぜだ、と。
で、このWHY。いろいろな記事など読みなんとなくわかったことがある。それは——




「リバティーの国の事件だ」



ということ。
これは「リバティーの国の事件」なんだよな。



●藪の中 ジェイダさんの視点

一つ見失ってはいけない視点が「言われた嫁さん本人」の視点であろうと感じる。つまり、


彼女自身が「NO」を立てられる


ということだ。
リバティーの国、と書いたのはまさにこの視点だ。
彼女は「弱い立場でもなんでもない」「考えのある一人の人間である」というスタンスのことだ。
クリスロックのジョークを、自身の中でシャットアウトすることがいつでも可能だ、当たり前だが


それが自由(リバティーなのだ、
という厳しい視点を忘れてはならない。


もっと言おう。もし彼女が、旦那のWスミスにあのあと、こう言ったと仮定してみようよ——



「あなた、なんてことしたの!?
 私をバカにしてるの?
 私は傷ついたけど、あなたに何か要求した?



と——。
あなたがWスミスならどう思うだろう?
オレが彼なら「しまった・・」と思うだろうよ。
つまり彼女には彼女の権利があるんだよ。

ここでアメリカが「訴訟大国」であることを引き合いに出さずとも、心身共に自身をコントロールすることが求められることを、少なくともアメリカは「是」とするように思える。

この視点に立つと、Wスミスも度を超えたことがよくわかる。彼自身のちにそのことに気づいたようでもあった。「悪魔はピークにやってくる」というD・ワシントンの助言がハッキリ言って一番深い。



むろん!
クリスロックも同様だ。



改めるがクリスロックのジョークは「洒落になっていない」。それも「リハーサル」にはなかったそうじゃないか。つまりあの時の「アドリブ」であり、要するに彼はウラを取っていない軽口を飛ばした。
そこに又「アドリブ」でかましたWスミスがいる。

おたがい「身から出たさび」を地でいった。
日本なら両成敗。アメリカならWスミス一択。
という、不可解さを延長戦で考えたに過ぎないがアメリカという国で必ず起こるべくして起こった事件だったようにも思う。噛みきれない矛盾も当然孕んでいる。


しかし今ではクリスロックへの視座がオレの中では上回っているよ。
むろん「スレスレ・ギリギリ」を狙うことこそが「イッツ・マイ・ジョブ」であることのバックラッシュを喰らったクリスロックだが、彼自身その軽率さと、コトバの暴力性を再認識したにちがいない。

だってそれはそうだから。
コトバの暴力が先にあったから。それすらわからないようではアメリカの文化はキメが粗すぎる。

もし再認識しないならただのクソで、そんなただのクソはこんな祭典には呼ばれてもいないだろう。
本当のプロフェッショナルなら、再認識して改良しまたジョークを言うはずだからだ。それでいいよ

なぜならくり返すがリバティーの国だからだ。
聴いている我々には「笑う」権利も「退場」する権利もちゃんとある。それだけの話なんだよ。


そしてこうも思う。
Wスミス側に同情する日本の論調はやはりどこか「被害者意識」や「お上がなんとかしてくれる」というまさに日本気質の現れであったようにも思え、そんな国の違いも興味深かった。
ここは各国の反応の違いがあって一つではない。正しさや正義は見る角度と場所でかわるものだ。




なお、今年のアカデミー賞はここ数年でもっともつまらなかった。
本当にここ数年でもっともつまらなかった。
二回言いましたが、毎年恒例で観てると、出来不出来はあるんだよね。



以上、
すでに落ち着いた先で書いた感慨まで。