わが心のBlog

by Hiroki Utsunomiya

からあげパーフェクトボール

徒然日記


からあげクンかりあげクンからきてる
最近からあげばかり揚げている。
だからアブラがすぐなくなる。もちろん一度使った油も漉して次の日の(笑)からあげに再利用している。が、それでも揚げ物なのですぐなくなる。そんなで揚げていて「そうかLAWSONのからあげクン植田まさしかりあげクンから来てるのか」と想った。今さらな、何光年ぶりの気付きなのかはさておき、からあげは本当に奥深い。史上最高の地元の、もはやない「とんかつ竹」のからあげは一生再現できそうになくて凹む。


ドラゴンボール
連載開始の第一話、ジャンプで見たときの衝撃をよく覚えている。「なんかものすごい連載がはじまった」と、子供ゴコロに想ったものだ。巨大化したサルの大写し、これから来たるべき大冒険感、それにシリアスなタッチ。アラレちゃんの作者が「本気で書いている!」そんなスリリングな迫力がビンビン届いた。そんな第一話が一番好きだ。
ヨーロッパのキオスクでドラゴンボールを見かけたこともあり、それくらい世界的影響力のある作家でありグラフィックアーティスト。ドラクエのリッチさは敵キャラの造形にあり(むろんシナリオと音楽も、だが!)くさったしたいを初めて見たときはキャラの完成度に感動さえしたものだった。その全てに感謝せねばなるまい。ありがとうございました


◉はじまってしまったかも
オレもついに「はじまってしまった」。
たぶん、はじまった。認めたくないが、きっとそうだ、ああはじまってしまったのだと想った。


花粉症である


ここ数年やな予感はしてた。
軽度ではじまっていたのだ。が、今年はちょっとこれ、確信だ、残念ながら。
くしょんくしょんしてる。くそー。今まで左団扇だったのに! くそー。はじまったよオレも。
左鼻と左目。右は今のところ無事である。くそー




◉パーフェクトデイズを観た
アカデミー賞を数日後に控え、話題性もあり気になって観に行ったという下世話根性は大いに認める。
で、私のような根性の持ち主も多かったのだろう、最近の映画館体感としてはやたら混んでた。近年では珍しく7割は埋まっておりロングラン恐るべし。そんなで超久しぶり、ピナバウシュぶりにヴェンダース作品を映画館でみたわけだが

さて、どこから手を着ければいいか。
手っ取り早く「好き嫌い」からいってしまえば


好きじゃない作品だった。


その理由はいくつかあってまず「役所広司」論がある(以下敬称略)。むろん好きな俳優である。が、好きゆえに彼の特性は二つあると思ってる。それは、


シャブ極道サイド か
ぶりっこサイド  かだ


で、今回は「ぶりっこサイド」。
こーれーがオレ苦手なんだわ。あの、肩をすくめる感じ? やーい、そっちサイドかあー、ですよ。
むろん妹(麻生祐未)との別れもラストの大写しもそりゃいい。が全般的に「ぶりっこサイド」なんでポテンシャル半減。正直平山のどこが魅力的なのか探す事はなかなか難しかった(それと平山さんよ、声出そうぜ! 人間喋らないと声帯衰えるぞ!)。

キャラクターの彫りで言ってもどうしても平山と音楽の趣味が結びつかない。これはオレ自身も疑った「果たしてオレのルッキズム(見た目偏向)からくる偏見的不和か?見落としてないか」と。
しかしどうしても平山がルーリードを聞くようには感じないし、金延幸子のオリジナルカセット(あったらマジで高価だろ!)を聞く人間には見えんのだ。


ヴェンダースさんよ
単にあんたの趣味だろ!(合ってねーよ)


こんな想いが喉元にありながらずっと観てた。
それと途中ほんと退出しそうになったのが「音響」の設定だ。とにかく生活音が煩くて仕方ない。
平山の行動の生活音をいちいち立てるもんだから「この男、実はせっかちで怒りっぽいんじゃね?」と観客をミスリードし悪影響すら与えるのではないか。

やかんドン! ふとんボン! うるせーって感じ。
なに、平山って男は不機嫌なの?

そうじゃないでしょ。
で、そうでないならこの音響設定は逆効果だ(ってヴェンダースは昔から環境音やたら出す作家だが)。要するに「主人公・平山」との対面が自分はうまくいかなかったな。

いったいこの映画はなにを礼賛してたのか。
答えのでないモノクロームの「平山の夢」、そして「4:3」の画角サイズはなぜ選ばれたのか。

パーフェクトデイズと題しているが既に「4:3」の画角に「時がとまった」が出ているような気がオレはするけどね。最後の大写しもタイトルとは逆行する悲喜劇にオレは想う。テーマの放り投げ方は初期「まわり道」に似ているかもしれない。良いところを挙げれば、 トイレを現代建築としてキュレーションしてみせる感性はさすがヴェンダースか。



追記:3/10

数日経ち、パーフェクトデイズを引き続き考える。
とくに劇中「自炊する」シーンがないことについてだ。日常を切り取った(あるいはそう装った)映画でありながら料理と呼べる料理は出てこない。

これは不自然というか、意図的に作家は避けたのだとオレは考える。平山(役所)はいきつけの店でたべスナックで飲む。これは案外エンゲル係数の高い生き方をヴェンダースは率先して「選んでいる」。



労働と消費



このテーマで読み下すとこの映画の意図が見えてくるように想う。料理も一つの創造行為だがその描写を避けているのだから。
もっともオリンパス銀塩フィルムによる写真撮影という「趣味」は与えられていて木訥とNG写真をちぎる姿があるわけだが、これもわかるようでいて存外不十分に描いている。つまり平山は額縁にいれることもなければ悦に浸っているとも考えられず、本当に木訥と「こなしている」からだ。もっと言えば本当のところそこまで興味が無いようにさえ感じ主題ではない。主眼はあくまで「労働と消費」だ。


そうか、これってニーチェ


と思った。ヴェンダースの意図がやっとわかった。
その筋で追うと「永劫回帰」を平山に仕込んだことがわかる。そして平山を超人ではないが末人として描かないギリギリの描写に拘ったわけだ。それが共感を呼び評価にも繋がったとも言える。
その証拠が「オリンパス」だ。
ギリシャ悲劇のオリンポスから来る「それ」を与えられた主人公は永遠の煉獄で空を見上げるのだ。
そしてだからこそ白黒の夢は解決に向かわない。



なるほどね



まずはこうして後日もボーッと考えられるのが結局いい映画の証拠のようにも想う。くどいようだが表層の端々が好きではないがね。それもたっぷり書いた。