わが心のBlog

by Hiroki Utsunomiya

車の哀れなるバッテリー

徒然日記


◉車のバッテリーあがる
いつぶりだろうか。
ガレージのマイカーの鍵をひねると「スカッ!」た。即座に、その直前「なんで後部ドア開いてるんだろ」と思ったことがよぎり車のバッテリーをあげてしまったことを悟った。

JAFを呼びスターター分の応急処置をしてもらう。
と、2択が浮上した。
新品のバッテリーに交換するか、やり過ごすか。オレは当然のように「やり過ごす」ほうを選ぶわけだが、調べると車という奴は《アイドリング程度の吹かしではバッテリーは充電されない》とわかる。


そんなわけで急遽遠出が必要となり実家へ向かう。笑
まあそんなドライブもたまにはいいものである。




◉哀れなるものたち
「哀れなるものたち」。これは少し前1月公開初日に観に行ったが、中々見応えのある映画だった。
R18指定という一般の映画としてはかなり珍しいレーティングの本作だが、内容はブンガク。
いや本当にブンガクしており、原作はイギリス(スコットランド)では有名な小説であるらしい。好みは当然あるがオリジナリティとしても「今」としても注目に値する成長メロソープドラマ。

実際「フォレストガンプ」や「ベンジャミンバトン」を思い出す変化球な叙事詩で、日本では「嫌われ松子」的メロドラマとも言えるように思う。もっと言えば実は「舞踏会の手帖」からあるクラシックな題材であり寓話だ。
ゆえに奇想天外だが「見易い」とも言え、始め30分位は目を慣らしつつ「この作品ってなにを描きたいの?」と見定める感じ。朧げに掴み出すとそれからは乗ってゆける。

リスボンには大航海時代を、ギリシャアレクサンドロス)ではシチズンと奴隷を、パリではムーランルージュや中国女を、ロンドンでは分かり易いマッチョな権威主義を。

そんなヨーロッパ史も絡めながら、成長のカギとなる「男たち」を、成長に避けては通れない「通過儀礼(性の目覚めや知性の目覚め)」を、配置してゆく。むろん「有害な男らしさ」という世界的ワードがこの娯楽作の後押しをしていることも明らかだろう(だから「今」感満載)。

まあ、ね。エマストーンすげーんだけどマヒする。
ラファロも当然のようにいい。特筆では船上の老婦人マーサがやばかった。あと娼館の館主。つまり男のポートレートのみならず、しっかり女の肖像も対比させてみせる。

美だけ追う至らなさ、プレイボーイの至らなさ、達観や知的な優しさの至らなさ、科学的態度の至らなさ・・あらゆるそれら「プアシングス」の寓話だ。
そして人の成長には哀しいかな、ちょうどいい、がないのだ。人生にセーブポイントがないことを、この映画も切に語っている。

好みもある、と書いた。オレ自体はいい映画だと思うし面白かった。が、琴線には来なかったかな。
だったらアジア人(仏陀方向)も出さんかいって思ったしキリスト教下の白人映画って感じはしたね。最後の方、モーレツにまとめ出すしね。(それと最後の旦那エピソードいるか? ちと安くなったよ)

でもこれらはつまり、ベラといっしょ。

「いつ」この映画に当たるか、ということ。
1巡目なら喰らう層も多いはず、と感じた。それだけの力強さと伝播性のある作品だ。


◉もろもろあれこれ
この「哀れなるものたち」も原作を基にした映画化作品であるが、今、原作のアダプテーション(脚色)について日本ではとある事件をきっかけに波紋が広がっている。様々な立場からの主張や意見、そして正義もあろうが、一度各人が立ち止まって考えることがまず、そもそも善いことのように想う。

リスペクト、敬意。それらの欠いたクリエイティブというものはどこか異臭を放ち、わかるものだ。
原作愛があれば尚更解像度を増してその違いに気づくものだろう。と同時に、たとえ原作と違うアプローチを映像制作者が採っても、原作好きのヒトから太鼓判を押される作品も多々ある、と私は信じる。
(善い映画を観た後、原作を読み「なるほどこう料理したのか」と感心することもまた豊かな作業である)

原作の良さとは。本質とはナニカ。読者はナニを感動したのか? 映像言語に変換できそうなのか。
その中枢の本質を考え抜くことがまず必要だし、前提だ。原作へのまずもっての「愛」、リスペクト・敬意がそもそも必要であり、そのうえで映像的アプローチというものが「いかに複雑で難しいものか」も分かった上で駆使すること。

要するに、難しい仕事なんだぜ、安易に手だすなよー?ということを立ち止まってしみじみ考えることだと思う。事件自体は不幸である。が、業界やステークホルダーが今一度企画と創造性について考えることは何度してもし過ぎることではない。