わが心のBlog

by Hiroki Utsunomiya

意識的なアクション:経験の本質

「自分が動かなければこれもなかった」


というものが「経験」なのだと想う。それがたとえマイナスであれプラスであれ、喜びも哀しみも、それらは確かに「自分が動かなければ目の前になかった」からだ。
今、当たり前のことを言っているし常に刻々と「自分は動いている」わけだが、そういった基礎代謝ではないところの「自分が動かなければなかった」もの、言い換えれば「意識的なアクション」こそが経験なのだ。そうでないと感情がわかず、感情がわかないアクションは経験になりにくい(それだと基礎代謝だ)。そして、


「想いの重さを共有する/共有できない」


という尺度が、経験の中心にあるコアだろう。
自分が意識的に動くには「想い」という原動力が必要だが、その想いの「重さ」というものは自分だけでは計りにくいからだ。自分以外に想いをぶつけてみて初めてわかるのが、その想いの「客観的なあらゆる重さ」であり、そんな「初めてわかる」ことこそがまさに


経験


なのだから。
むろんその「重さ」とは相対的だ。思いのほか軽々しく扱われれば哀しく、思いのほか受け止めてもらえたら嬉しい。現実空間に落とし込むと違う問題が発生したりあらぬ方向にいったりする。そんな「重さ」の主観と客観のズレもまた、経験の中心のコアだとしみじみ想う。


つまり、
想いを抱えることはすでにズレを意味する。
そして、そういうもんでありそれでいい


ということなんだと想う。
想いからアクション・行動がうまれ、行動は賛否を伴う。友人が否に回ることもあれば思いがけない協力者と出会うこともあり、そうして「他者」がうまれる。そんな連続であり、それだけで充分すぎるほどの経験ということだ。


あー傷つきたくない!


と次のアクションを恐れることは誰しもあるだろう。アクションがなければ関係も壊れず、当たり障りはなく、誰も傷つかない。
そのかわり毒にも薬にもならないような、そんな感覚は日常往々にある(日常とはそもそもそうだが)。
が、アクションとはなんとなくではなく「自分が動かなければこれはなかった」という後悔と歓喜のごった煮で彩られる「完全経験」(今作った造語)であり、だからこそそこには想い(重い)が必要なのだ。


わかりやすい例えが「登山」だろう。


なにもアイガー北壁やヒマラヤを目指すエクストリームな登山家でなくとも、たとえ小さな丘であれ「行こうと思わないと」行かない場所であり、そこでの景色に人は感動するのだから。それも道中まさに自然に突き返されるような「現実(他者)との共有」が行われるわけで、小さな丘でもそれが初めてなら完全経験なのだ。


きっと地獄の番人閻魔大王の閻魔帳にはリストがあって死の間際には感想戦なんかも始まるのだろう。

「おまえの完全経験は・・・はあ、この程度か。どれどれ・・ほうほう、あーこれな。ふむふむ。これはなぁ、いいんだぞ、おまえ、つらくて正解。って、正解つっても答えなんかないからな? 答えが安易にあるようじゃあ、そんな天国要らねえだろ」

などとね。