あたらしいことに挑戦してほしい
ビジネス上の会議や開発の場で、このようにサムシングニューを求められること、あると思います。
でもこういう時、その発言者がどんな思惑(本音)で言っているかがとても大事だと想うのです。
あたらしいことに挑戦してほしい
(でも失敗は許さないよ?)
このカッコ以下が発言者(仮に「彼」とします)の本音である場合は多く、こんな一見もっともな発言があった際は要注意でしょう。
新しいこと X 許さない失敗
そんな掛け算は成立するでしょうか。
今日はここについて書きます。
◉研究開発というコスト
まず彼(架空)は「新しいことに失敗はつきもの」ということをどれだけ理解しているでしょう。
そもそも「新しいこと」とはなんでしょうか。
他の言葉で言えば、何にあたるのか。
まずその点もふわつく訳ですが、たとえどんなあたらしさにも「研究開発」が必要だと私は考えます。で、研究開発には「失敗」という可能性もつきものです。さあ、この辺りどう考えますか?
たとえば子育てのワンシーン。
「逆上がりができるようになりなさい。
でも、失敗は許さないよ?」
こんな親はいるだろうか。もし居たとして、その子供は動きだすことができるだろうか。
その子は「逆上がり」という未知なる挑戦=研究開発をしなくてはならない。でも失敗しちゃだめ?
フツーにパニックでなにもしないでしょう。
あたらしいことに挑戦してほしい
(でも失敗は許さないよ?)
カッコを含めたこの二行には初めからダブルバインドな矛盾が備わっています。気をつけるべきです。
いや、ベキ論でなくとも、
どれだけ失敗を担保して語るか
は極めて重要です。
彼の立場にたてば、この資本主義社会真っ只中の営利企業戦士として「勝利」は至上命題でしょう。
だから「失敗はゆるされない」。そうは言わずともその恐怖は無意識に滲み出るものです。
でもだからこそ。
発言には体重を乗せる必要がある
下の句の「失敗」についても言及すべきだ
と私は考えます。
だってそんな「失敗への恐怖」なんて、一枚めくればバレてんだから。でも向かう先は「新しさ」なんでしょ? そもそも難易度高いんだから、ソレ都合よく隠しても仕方ないだろうに、ということです。
じゃ、どうすればいいだろう?——こんな下半身の共有、そこから始めなければ絵空事なのです。
◉危険ワード「イノベーション」
新しさ、という言葉だけでも幅がありすぎる訳ですが、その言葉の真意がよもや「イノベーションしてほしい」だと、話はより深刻でしょう。
言葉の定義は「イノベーション=技術革新」です。
で、おそらくその「質量」を発言者は知りません。とくに「革新」という言葉の重さを、です。
「あたらしいことに挑戦し
イノベーションを進める!」
というもっともらしさにはまさに「研究」「開発」「失敗」と「仮説の訂正」の日々——そしてそれらを可能とする「日数」と「コスト」が必要です。
その質量を感じなければ発言は軽い、と言わざるを得ません。「イノベーション」とはポップな流行語ではなく、本来重みのある言葉だからです。
言わんや「革新」を求めているはずなのに、どこかのパテントをなぞるようなことでいいんですか?
と私なら彼(架空)に真意を問いたい。
それって革新でもなんでもなく「右にならえ」だからです。それこそ新しさとはほど遠いものです。
この際もっと言いましょう。
もしもそんなマインドなら、結局のところ、下記が彼(架空)の思惑に当たるでしょう。そしてその馬鹿馬鹿しさは解説するまでもないのです。
開発日数も
報酬も用意しないが
「最近っぽいけど、他にない新しさ」を
よこしてくれよな。
失敗して私の責任にならぬようにしてくれ。
あと勝ち方もだいじだ。強豪チームのように
圧勝の4−0で勝ちたいからあとはよろしく。
皮肉にも、彼は気づいていないのです。
この思惑こそが最大の失敗であることを。
私には日本中がこの病の蔓延した状況に思えてなりません。この病、とは【こんなオーダーでコトが始まり、結局失敗が怖くなり過去の「成功体験」も引きずって巻き戻り大して変わらない病】です。
それを新しさ、とは言えないのです。
よく見る光景、と言い、芸のないことです。
また本当に新しい、とは評価も名前もない、ということです。果たしてそれに耐えれるのでしょうか。ゲームチェンジ、パラダイムシフトとはそういうことで、その極北が「発明=インベンション」です。
◉しっぱいも成長の栄養素
そもそも失敗って必要だろうか。一般的で言えば
「現状維持に、なんら必要ない」
と言えるでしょう。でも新しさを求めるという想いは即ち「現状を変えたい」ということです。
先述の「彼」もその想いは同じでしょう。しかし現状を変えたいならそこには、しっぱいの可能性も変化への軋轢、痛みも伴う。即ち結局の処、
変わりたいか、変わりたくないのか——。
何を変え、何を残したいのか。
そしてそれらの主語はいったい、だれか。
これらの問いかけが「ワガゴト」でなければ、新しい試みに歩を進めることもできないのです。が、
これがみんな、にがて
この「変わりたいか問題」が本当にうまくない、ヘタです。かく言う私もたいへんヘタですよ。失敗、と文字にしただけで「う・・」と拒絶アレルギーを持つ人も多いでしょう。
でも、だからこそデザイン(計画)して臨もう
ということを、最後に言いたい。「未知への挑戦」とは本来それ自体が尊く美しくも、痺れるアクションなのだから。先ほどのビジネス的事例も、
彼 「あたらしいことに挑戦してほしい」
この彼も巻き込まないと新しいことなど不可能だ。
「我々の新しさとはなんだ」
双方が膝をついて言語化しなければ到底ムリです。むろん向かう先の難易度、怖さもまな板に乗せて。
結果、自分たちはレアルマドリードのような圧勝チームではないかもしれない。しかし「勝ち筋は朧気でうっすらだが、ある・・」それくらい握りあった時、面白い新しさ(ワクワク)がでるのではないでしょうか。
むろん負けるためにピッチに立つ人などいません。
が、激戦の末の0−0はフツーにあり得るし、1−0でも勝ちは価値だ。そんな腹づもりさえお互い(裁量者と実働部隊)が握ればもう実は、
失敗と呼べるものがない
と言えるわけです。双方が語りきり計画すれば、よもや失敗も「次のヒント・糧」に変わるからです。
それにこのような試み・結束こそが「あたらしい」と思える部署やプロジェクトが、どれほど多いことでしょうか。
これが健全な「あたらしさ」への接近方法だと私には想え、また理想の彼(社長GM部長課長プロデューサー、全ての上司)の姿に想えてなりません。
本稿は以上です。
みなさんはどう考えますか。それでは!
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後記。
ちなみに、PDCAが上記にあたるのではないか?と感じた方に付言しますと、
「そのPDCAってのも自動的になってませんか?」
と問いたいです。私にはPDCAもポップなTIPS的ツールに映り「じゃあホントに失敗も担保して考えてますか?」とは確認したいわけですよ。そしてその奥「PDCAの先の、大目的ってなんですか?」という下半身の本音がもっとも大切だと感じます。
なお「2点取られても3点獲る!」そんなスペクタクルな攻撃的チームが、私はだいすきです。
それではみなさん、ごきげんよう。