わが心のBlog

by Hiroki Utsunomiya

私のサッカーブログ考

先日知人の方から、サッカーブログ(日本代表中心)にお褒めの言葉を頂いた。
「最近、ますます良くなってますね」と。
光栄なことだが、そこで私も考えた、もしイイのだとしたら、原因は何だろう、と。
そこを鑑みるに私のサッカーへの視座には


失敗と挫折


が常に根底に流れているように改めて思う。
今回はその大きな振り返りをしたい。

 

1993年 ドーハの悲劇
2006年 ドイツW杯ジーコジャパンの崩壊
2008年 北京五輪反町ジャパンの崩壊
2014年 ブラジルW杯ザックジャパンの崩壊
2016年 なでしこジャパン、栄華の崩壊


これら大きな失敗に、私も大きなショックをうけ、


〈そもそもなぜ「ショック」を自分はうけるのか〉


考えてきた。
元サッカー部でアクセスし易いということもあるが、別に自分が蹴ってない。他人による行いだ。
なぜ自分の心が動くのか。あるいは動かないのか。
どうして人は熱狂するのか。または押し黙るのか。

そしてそれはなぜか。

そうした自分を含めた思索の限りが「華やかな成功」体験より重要で、得るものが大きいからだ。


〈失敗から学べ〉


ということだ。
しかし、どうして学ぶ必要があるのか?
小学生の禅問答のようだが、それは「昨日の自分より向上したいから」ということ。主語は自分だ。
これが人によっては将棋でも落語でも仕事でもなんだって「その道」はかわらないだろう。
失敗の応用はどんな分野でも効くものだ。


単位のちがう事件はもっともっとある。


1997年 加茂周更迭事件
1998年 カズ落選事件
1998年 フランスW杯三連敗(城卵投げられる)
2002年 日韓W杯ベスト16・トルコ戦
2010年 南アW杯ベスト16・パラグアイ
2018年 ハリルホジッチ更迭事件
2018年 ロシアW杯ベスト16・ベルギー戦
(などなど数えきれず)


これらも「華やかサイドの(確実な)事件」だ。
で、それは「なぜだったのか?」を考察することが極めて大切だと想うからだ。
むろん本当のところはわからない。が、推量し洞察し「ピットを飛ばす」。言わば、


その世界の歴史と、自分のこころ


この二つの定規を通して「今」を視る。
この視点を忘れてはいけないと思っている。

外界(情報)だけではダメで内界(感情)だけでもダメ。それも自分の下半身(パンいち)=いやしい気持ちにも正直にだ。
しかしこのことはなかなかタフな行為なんだ。


上記を書いたときなんて、完全アウェイである。
今読むと至極真っ当だが「美談にしたい」「負けたことは済んだこと」その、同調圧力も当時かなりのものだった。
「総括」は結局のところ、マイナーな作業だ。みな聞き感触(ざわり)の良さを求めるものである。


しかしこれも体験の「歴史」の1ページとして記載してゆくと、やはりその辞書は分厚くなってゆく。


で、それらもまた「そもそもなぜだ?」と自分で奥の奥を考えると、



「自動的な態度がキライ」



ということに尽きると想う。

サッカーは空間を司るスポーツだ。
その「空間」は複雑系のなかにある。

で、その「空間」を語る上で「敵」を勘定にいれない自動化に、まず抵抗がある。
「自分達の理想」以前に、まず相手と空間がある。その可変意識のありなしには、特に口うるさい。
これはオレがフィールドは違えど現場で空間と物語(意図)を司る人間だからこそ、だとも想うが。
「自意識と演技」シリーズ でも読んで下さいな)


その行いは「なぜ」するのか?
その「原点と大目的」はなんだ? そこにそもそものズレはないんかい?、と。
その原初の、練習段階の誤謬をここに記している。


それに。

大衆(というかオレも)が抱く〈期待の自動化〉がイカン。「ハリルホジッチの正体2」を引用する。
これは在任当時の、ハリルホジッチ監督への「非難の批判」である——。

保身? なにを言ってるのかわからんね。本当にプロフェッショナルなのかね、君は?
(中略)

つまり、指揮官が「性善説」の持主であると、誰が決めたのだろうか? ということ。
はっきり言ってオシムやザックのような日本を鑑みてアジャストした人物は神様に近い。
それくらいの奇跡なのだと考え接した方が計算がたつ。
いわんや、彼 ら は 日 本 人 で は な い 、 あ た り ま え だ が 。

その筋で、いったん落ち着いてハリルの言動を思い出してごらん。
なんら、不思議なことを言ってないことに気付くだろう。

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ハリルに限らず、外国籍の監督解任論には、こんな日本人の「思考の癖」がついて回る。
その論調のウラには「ハナシがちがう!」という恨み節がついて回るのだ、ぜったいに。

しかしそんな契約は誰もしていない(省略)

正義とは、勇ましくも危険でとてももろい思考だ。角度が変われば、正義は反転するからだ。
ハリルの角度から見る正義を誰も責められない。

これらは専門用語で「コンテキスト(背景濃度)」の問題として捉えられる。
ローコンテキストの人物に、ハイコンテキストを強要している。企業で言えばすなわち「ブラック」だ

 

これは外国籍監督と世論双方への決定論だよ。
良し悪し、ではない。好き嫌いではもっとない。
お互いがお互いのハイコンテキスト(背景濃度)を求めている。その分断と伝達ミスは、なにもサッカーに限らないありふれた、私とあなたの諸問題だ。

ジーコジャパンでの崩壊でも等しく言える。
自分にも他人にも厳しい中田英寿が描くコンテキスト(背景濃度)と、国内選手が描くコンテキストが乖離し、ジーコはキワのマネージメントでテンパった。その崩壊と焼け野原を我々は2006年に視た。むろん相手・敵の描くハイコンテキストも拍車をかけて、だ。



マネージメントの失敗



これこそが最重要項目として眼前とあり続ける。

1993年のオフトも、
2008年の反町も、
2014年のザックも、
2016年のなでしこ佐々木も、


どこかでマネージメントに失敗したのだ。


華やかな裏での失敗で言えば、


トルコ戦のトルシエも、
パラグアイ戦の岡田も、
ベルギー戦の西野も、


どこかでマネージングに失敗したのだ。
むろん選手たち自身がピッチの中のどこかで!


その「どこか」の正体。
どこかは、表面のイチミスなんかではない。
(そうであればどんなにいいだろう)

そんな分かりやすさではなく、そのウラにベッタリと流れる大きなマインドのエラーを考える。
これこそが深遠であり、ただのスポーツではなく普遍的な事象で、だからこそ面白いのだ。



〈失敗から学べ〉



「学べ」をもっと細分化すれば、


〈自分たちの立ち姿を認識せよ〉


となろう。認識がなければ学べないからだ。
なぜ書くのかと問えば、私も向上したいから
そうでしかないから(たまに)サッカー記事を書いている。我が身を視ることと等しく。



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もちろん今、大切な時期だから絶賛発動中だ。
森保ジャパンの黄色信号は私の中でずっと点灯中。

そもそもだが。
森保ジャパンの成り立ち、その「歴史」も



「外国籍監督の去就の繰り返しは不毛だ」



に端を発している。
その大号令、公式第一号監督が森保一なのである。
(協会もちゃんとインフォームせえよ、だが)


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脇道コラム
なお、この「日本人が監督であるメリット」はすでに皆さん自身が知っていることとなる。
二回ベスト16に導いた岡田氏を思い出せばいい。

彼は日本人であり今もアクセス可能なんだよ。
実際試合のゲスト解説などよく出てくれている。
そして彼の叡智・ノウレッジをみな感じ取っているところではないか。このフレキシブルさは、

オシムザッケローニにはないことだ。

彼らは彼らの国にいる外国人だからだ。
その叡智の二三を頂くには、専門家と通訳がヨーロッパに赴かなければならない。そして、



この差はでかいんだ



この〈オフコーチ〉の要素は地味に大きな資産だ。
引退したA代表経験者も、YouTubeで自身の経験を発信し始めている。良い傾向ではないか。閑話休題
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さて現実に戻ろう。
森保ジャパンの正念場は、眼前とつづく。

ウォッチし甲斐があるというものだ。
彼が公式第一号監督であれ、以前より厳しくも書いている。(リアクションの視点が乏しいから)

引き続き(飛び道具も出しながら)冷たくも温かくも書けることを書いてゆく。
そこでその〈立ち姿〉がどんなものかを彫り込んでいければ良いと想う。




おしまいの最後に——。
なでしこの判例も重要なのでここに転載す。