久々、演技論を。
「表現」という言葉はかなり解釈が広いから、これから使う際は気をつけよう、という話をします。
自分も好きで使ってきた言葉だけれど意味の振れ幅は大きいし、どうやら常用は危険だな、という感慨からです。しかし書いたらかなり膨らんでしまった。
なお一般論ではなく、個人の飽くまで私論です。
「表現」シリーズ。参ります。
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「演技を表現する」
こう書くとどこかもっともらしいが、しかし日本語としては「変な」並びをわざと書いてみました。
なぜなら演技も「Do」で表現も「Do」だからです。
「Do を Do する」という「頭痛が痛い!」的わけわからない構文に映るわけですが、こと演技において「Do を Do する」ような二重表現的オーバーアクトはよく見かけるものではないでしょうか。
(注:「二重表現」・・ここにも「表現」という言葉が入りますが、二重表現で一つの単語なので今回は辞書的意味で使用します)
とくにこの「表現する」という言葉は大げさな、本当に大きい言葉なので解釈に注意が必要です。
というのも、もし(こんな人いないけど)「もっと表現しなさい!」なんて言われたら
「もっと表現しなさい!」
↓
X「自分の中から絞り出す」
気味に解釈される危険しかないからです。
「表現なさい!」かぁ・・。ああなんかやらなきゃ!と絞り出す方向に向かうだけに思えるのです。
しかし演技において「頭痛が痛い!」的ギャグの場なら別ですが、ほとんどの状況で「絞り出す」必要はなく、絞り出すようなら、その場にそぐわない二重表現的オーバーアクトになるでしょう。
むしろ(理想的な矛盾としては)「思わず出ちゃった言葉=セリフ」や「抑えようとしてもでてしまったノイズ」こそがいいのであり、表現という日本語よりも
顕現(けんげん)
:それまで隠れていたものが表に出てくること
の方がまだしっくりこようものです。(って、言葉が固すぎてとても使わないけどさ!)
どのみち「表現」というと「積極的に現す」という積極性がこびりつくので要・注意なのです。
この積極性の違和感はこう考えてみたらわかるでしょう、「そもそも積極的に怒る人、なんているだろうか?」と。
人は自分の想いや目的に反したとき、裏切られたと思えて(仕方なく)怒るのであり「怒ろうとして怒る」ものではないですよね。泣くときも堪えようとして、それでも零れるのが涙、だと思えます。
頭痛だって、仕事の会議中などむしろ「痛いのを我慢する」ものでしょう。そこで「痛いぃぃ!」とアピールするかどうか、その選択は「状況」と自身(役)の「目的」が決めるモノです。
つまりまず積極的に集中すべきは役の「動機や目的」の方であり、所作や感情ではないのです。
結局「表現」という言葉には「事後」としての含意があり、結果として「表現になった」ならいいですが、表現自体を「目指してはいけない」というニュアンスに近い。それに「表現=アート」だとすればそれって当然すぎることなので、どのみち空語なんですよね。
とくにこのワード。
「感情表現」
これがかなり危険だと想っています。
界隈では割とすんなり受け容れられているだろうワード「感情表現」。こいつは厄介ですよ。
「感情表現」ってもう、自分の感情にフォーカスしているわけでしょう? で、その時点ですでに
「内向き」
であることは大いに自覚しなくてはいけない。
先述した「積極性の違和感」と一緒です。
「積極的に感情に向かっている」
ということになるからです。まさに「二重表現」的違和感・くどさにつながりかねません。
ここにトラップ(罠)があるんですよ。これはねぇ、
演(や)る方は気持ちいいんだ。
いま! 自分の感情をみつめてる! というとき。
「自分は哀しいんだぁ!」 ライトを浴びている!
気持ちいいですよね? しかし、それらはかなり
独りよがりにみえている
かもしれない、とは念頭に置いた方がいい。
人物の矢印が「内向き」になると
アクションが死ぬ(止まる)
んですよ。目の前の状況、空間から切り離されてしまう。そしてそのタイム分、共演者はその独りよがりを待つことになりかねません・・意地悪に言えば、ね。
一見すると哀しいセリフが用意されたような、
「内面の吐露」なんて芝居場は本当に要注意です。
本来その内面の吐露さえ、外的な他者・目の前の状況に向かって伝えるべきものです(注:企画によっては「独りよがりを狙うこともある」とは加筆します、が、それは変化球です)。
内に向かうとアクションがうまれず、そのシーンがしぼんでしまうからです。ここで答えを導くわけではないですがいずれにせよ、ここでの技術(=演技)のアリナシこそ「シャープにも、散漫にもなりうる」分かれ道です。一つ言えることは
「しみじみする」は
最終手段でしかない
私はそう想います。
役者さんって(・・いえ、こう書くと語弊あるので日本人、としておきます)、日本人って「しみじみ」が大好きで、ほっとくと「しみじみ」方向にむかいやすいものです。でもそれは
相手役や観客に
負荷を与えているかも。
ということは同時に気づいておいて丁度いいのです。
そのしみじみって「わかってあげる」装置が予め発動しているのだろうか? またその科白の動機は「わかってほしい。自分を哀れんでくれ」なのだろうか? ほんとうにそう? と考えてみてほしい。
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【付録】ここで脇に逸れ、大切な補足をします。
「頭痛」を「痛いぃぃ!」とアピールするかどうか。と先ほど書きましたが、これは茶化してなく、まさに大切なことなのです。
「アピールするかどうか」
これは一つの選択だからです。
そのアピールは共演者の「わかってあげる」が狙いなのか。即ち、自己憐憫がこの場で効果的なのか?
もっと言えば「痛いぃ!」と前面に出すことであなたの役は何を期待するのか? と考えることです。
で! 役と物語によってはもちろん「ありえる」んですよ。
状況によって「頭痛/が/痛い」はギャグではなく、本流の科白として成立する。なぜならそう示すことで「このくだらない会議を終えたい!」が科白に込められた、裏の目的かもしれないからです。
あなたは、こんな脚本を前にしています——
○会議のシーン
貴方の役「ちょっと離れます」
立ち上がると、みながあなたを見る。
貴方の役「頭痛が痛いんで」
「頭痛が痛い」は二重表現だ、とあなたは本稿で知っています。まずは脚本家が言い間違いではなく、会議と二重表現を掛けた「皮肉なメッセージ」をあなたに委ねたのだ、とはわかっておきましょう。
しかし「脚本家の意図」はわかったとして、本稿で語ったように「絞り出す」のはどうでしょうか。
「!」マークで発せば、あなたの出力はどこか場違いだし、「皮肉」を皮肉っぽく言っても台無しです。
なぜなら「わかってあげる」装置などこの会議にあるのでしょうか? 意図を感じつつも逆算し、あなたの役に戻る必要があります。しかし「内向き」ではアクションにならないので、外に発信してほしいのです(というように、どんどんレベルはあがります)。
さあ。あなたはどう伝えるのか——。
いくつも選択肢はあるが、行動を起こすのはあなたです(まず「立ち上がる」わけだ)。状況も状況です、部長以下みんながあなたを見ている。ずいぶんやりがいのある場面になりそうじゃないか。
こうして表面の科白と裏の思惑・動機を考え、状況(外部)を感じながら行動する事が肝心なのです。
(戻ります)
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しかし「どうしたら成立するだろう?」と立ち止まって考えもせず「哀しゲなセリフを、哀しゲに」——。それも相手ではなく自分に向かって、いわんやその感情を説明しようものなら——。
確実に、そのシーンは停滞することでしょう。
与えられたセリフが一見すると「哀しゲ」であれ、もっともっと外に影響を与えるべく、役の奥底の動機を掴まないと活きたシーンにならないはずです。これはTIPSでもなんでもなく、「待てよ? これってホントウに哀しいセリフなんだろうか」と立ち止まることができるかどうか。なのです。
「感情に溺れる」という居心地のいい檻から早く抜け出せるよう役の目的を掴み、行動をしっかり選び抜くことがとても大切です。
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という処で、自分の書いたブログを思い出した。
この「リアルとリアリティー」で書いた、
「ひろし そりゃ考えすぎだよ」
というセリフを寅さんが「どう言うか」について、です。与えられたセリフを役としてどう捉えるか。
今回の記事を踏まえるとより解りやすくなるはず。
これはコメディだから、ではなく、とても大切なことを示唆しているのでよかったらぜひ。
もちろん以前書いた劇論「自意識と演技」シリーズに今回のエントリーは通じています。
パートIIができました。
もしよければこちらも。頭痛が痛いII。
メソッドの罠を論じます。