わが心のBlog

by Hiroki Utsunomiya

編集の話

光、について少し触れました。(▶参照
なのでこの機会に「編集」についても、少し自身の感慨を記します。

編集について書いた過去ログはこのあたりです。


上記ではマニアックに再編集DIY。編集における物語的効果。これを創り手の「自意識ジャンル」という視点で検証しています。そして、


ここでかなり、オシゴト上の編集時の下半身を書いてます。とくに「SS」後半の「捨てる量の話」はキモすぎるのでぜひ読んでほしい。


◎遊びか、オシゴトか
動画編集の話をする大前提として、編集する、その「中身」は

自身の愉しみのためか?
それともオシゴト上か?

という違いの話。これをまずしなければ、と想いますが・・・



「ない。あまりない」


と言えます。ライフワークでも仕事でも、編集という本質にかわりはないはずです。
趣味とオシゴトでの違いは編集する素材の量、多さだと想う。しかしどんなに素材が少なくとも「選ぶ」という行為に大差がありません。

ただこれは、ニュース/スポーツ映像の編集についてはさほど語っていません。
が、ドキュメンタリーについては下記、もろに語っています。一言で映像と言っても様々ですが、作家性の強い、実験映像・映像詩でさえ、言えることを書いています。基本的な映像編集という「業」を書きました。

では参ります。


◎編集とは捨て抜くこと
前ブログで編集は「捨てること」の大切さを書きました。ここをあらためて。
一つの画を採用するにしても


「これは単なるオレの自意識か?」


と問い直せますか? ということです。
(これは映像詩でもそうです。映像詩なら「ああそうさ、自意識だよ」と断固言い切れる絵を採用しようぜってこと)
で、諦めずこれのできる人材は実は希少なんですよ(今遠回しに私は貴重だと言ってる)。

たとえば、ですが。
私は大抵、企画(脚本)・監督・編集の三つを担当します。場合によっては(腕立てをしたのち。笑)撮影も担当します。つまり編集に到着する前に、様々な「やった、やってやった。その行程」を知っていて、そんな素材群を抱える身です。そうすると


「アピールしたい、当初の狙いをねじこみたい」
 あるいは、
「この人の、これ、活かしてあげたい」


と思うのもまた当然です。要するに私の中に「素材愛」が生まれているわけです(ここまでが前提)。
しかしココカラが大事ですが、そのアピール手柄などは、物語(企画・ミッション)のため



どれだけ捨てられるんだよ?



ということです。それも自分自身が
(あるいは、どれだけ当初の目論見(企画バイアス)を捨て、素材自体を活かせられるんだ?という逆の視点も含む)

尺がシビアな場合など余計です。🅰️と🅱️どちらかを切らなければならない、という時。まさに


「これは単なるオレの自意識か?」
「物語に本当に必要なのか?」


という深遠な選択を常にしなければなりません。そうして物語のために選び抜かれたベスト・オブ・ベスツは当然、絵に迫力を生み出します。観た人も無意識であれ、そのメッセージを感じるものです。


こういう諸々が、私には編集の正体に思えます。


編集というのはやみくもに連続性や刺激をつなげるものではなく、ストーリーをどう物語るかの最終にして、最大の核心部です。というかこの「ラボ」で全ての素材が「映像言語」として翻訳されていく。
素材が足りない。こんな事も余裕であります(何やってんだ現場は!・・あ。オレか。の世界)。でもそんな難所でも、アイディアと新たな気付きの宝庫です。その瞬間はエグいが、そこで新たな伝達手法が身に沁みて生まれるものなのです。


なお、そんな格闘の末組み上がった作品でも、オシゴトではギャップが生じるもの。
(自主・趣味でもギャップはあるでしょう。それは自分というクライアントに対して、さ。だがそれは自分で解決だ)
むろん私も張る時は張りますよ。
かようのように全てのカットはまるで積木やジェンガのほぼ臨界点間際で組まれているものです。その中には「それでもこれは遺すべく意図されたカットである(ただの自意識と一緒にすんじゃねえ)」という重要なカットも埋めこまれているからです。
が、その果て相手が「こうしてほしい」なら静かに引下げる。オシゴト上では、それだけのことです。
(もう私の深遠な戦いは既に終わってるからね。その為にも選び抜いたという自信が必要なんですよ)


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さて、そんなわけで。

編集の行程をより感じて貰うため「キョリとジャンプについて」ーーこれを少し書きたいと思います。



◎キョリとジャンプ
編集はヨコ方向タテ方向の作業を要求します。
ヨコ方向とは要するに全ての素材を並べ切る作業のこと。とにかく並べ切る、カット編集です。
これは言わばラソンです。
しかも考えながらのマラソン。それも途中道草したい(逃避したい)のにとにかく距離出さないと終われない」。そんなマラソン●●キロです。

で、そのあとタテ方向が待っています。
エフェクトだの、タイトルだの、前回語った「カラー」がそれです。まさにタテにジャンプする感じ。
いきなりバーピーですよ(バーピーってジャンプしてしゃがんで、というキツい反復運動のことね)。
ラソンのあとバーピーが待っています。


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しかしこの頃には疲れ果ててるわけです。
カラーは前述の通り自身関わりたいですが、エフェクト?ヒエー!ですよ。しかし哀しくも低予算を請け持った選手たち(オレ含)はマラソンのあとバーピーするんですよ。部活ですよ

今日は、そんな汗をあなたに贈ります。笑


まあヨコ方向・タテ方向の話は、どのクリエイティブにも通じる話でしょう。
脚本で言えば、まず「とにかく」書き切るのがヨコ方向のキョリ。で、ディテールや科白を詰めていくのがジャンプであるタテ、となります。

小説なら、タテはレトリック
距離出して書き切らなきゃいけないのに、もうすでに書いたページのレトリックを弄り出す

たぶん、あるあるでしょ。編集もそうですよ。
まだ「終わってない」のに、すでに組んだシークエンスのディテール弄りたくて仕方ない。というか弄りだしてはひととおり逃避して、

「・・・。やっぱ走るか」

と深呼吸して走り出す。

それとこれを最後に書いておわろうと思います。


サウンドデザインについて
編集作業にはもちろん音響の編集もあります。
サウンドデザインです。
で、語弊を恐れずいえば、多くのディレクターが音に弱いと個人的には思っています。で、それはあまりよろしくないことに想うのです。

むろんMAという作業があり、プロのミキサーに音響作業を託すことができます。
だからと言って、演出に専門性が必要ないわけではない、ということです。たとえば「音の強弱がどれだけ感情に影響を与えるか?」という事に意識的でなければ、少なくともスリラー表現なんてとても無理でしょう。いずれにせよ、


「そこで何がどれだけの大きさで鳴るのか」


それは台詞一つとっても。です。なにもスリラーのことを語っていません。音を意図する意識の話。
音響の世界もむろん奥深いが、要するに「うるせえ」ディレクターとして自分はいます。


これらはたぶん。
そもそも「ラジオドラマ」が一番最初に作った自身の処女作、というささやかな想いから来るのだとも思う。学生時代、放送研究会というサークルでオープンリールを切って貼って、音だけの表現に愉しく触れていたからね。


映像は光と音の芸術。
音への愛情と敬意。光同様、とても大切な事です。


やはり、終始考え方の話になってしまいました。
今日は、そんな血と汗を贈りました。


次は撮影の話。もとい機材トークです。

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