わが心のBlog

by Hiroki Utsunomiya

「ハリウッド映画の終焉」を読んで



集英社新書「ハリウッド映画の終焉」を読んだ。
感想・書評を書こうと思います。
(結局4000字も書いてしまった!)

さて。
まずこの「読んだ」も細分化しよう。それはーー


新書本か?
電子書籍か?


そんな神経質な選別が大切な要素になっているのが本書だった。メディアの移行について言及し論じているからだ。だからそんなメディアの違いに過敏でない人には刺さらないだろうと思うし、そもそもこんな題名の本を手にとることもないだろう。もっとも「本」についてではなく「映画」について、書かれているわけだけど。(ちなみに新書本)


16作の最近のハリウッド作を引き合いに語られてゆく本書。自分が見た作品を挙げると・・


「プロミシング・ヤングウーマン」
「ラストナイト・イン・ソーホー」
「フェイブルマンズ」(劇場にて)
トップガン・マーヴェリック」(劇場にて)
「TENET」(劇場にて)
「DUNE」
「TAR/ター」(劇場にて)


取り上げられた16作中7作しか見ていないが、それぞれ自分の中で思うこともあるので本書は愉しく拝見した。

まず目次が面白い。


第1章 #Me Tooとキャンセルカルチャーの余波
第2章 スーパーヒーロー映画がもたらした荒廃
第3章 「最後の映画」を撮る監督たち
第4章 映画の向こう側へ


もう目次を並べただけで「なにをか言わんや」となんとなくわかる感じがいい。

で、この本は「はじめに」と「おわりに」がとくに面白い、ということを先に書いておきます。
作者のにごこり、想いが乗っていて気持ちいい。

章立てから自分なりの想いを書くよ。もはや感想ではないかもしれぬ。このブログ、ほとんど映画評を載せてないのでそれらも投下して、好きに書く。


◉ #Me Tooとキャンセルカルチャーの余波

第一章は「プロミシング・ヤングウーマン('20)」を皮切りに「ジェンダー」の岐路・現在を論じていくわけだが、改めて再確認する感じだ。この本にはでてこないが「SHE SAID('23)」なんてモロだし(これも必見。だが二次的な企画群ではある)、シャーリーズセロンらの「スキャンダル(’19)」もそうだしこの本も取り上げるように「有害な男らしさ」というワードは映画界のみならず世界中で席巻している。


完膚なき厚化粧のキャリーマリガン

いや、それが悪いことではなくコレクトで、要するにポリティカルコレクトネスな時代であることを端的に示している。もっと言えばミソジニーミサンドリー大合戦の時代であり、その象徴的なオリジナル映画が「プロミシング・ヤングウーマン」だったことに自分も同意する。現実社会ではそれら劣情の焚きつけにSNSもすごいことになっていて、この複雑性が現在の映画自体、避けることが出来ない。

でね。オレなんかはそんな中、仇花のような


アンダー・ザ・シルバーレイク('19)


が好きだったりするけどね。


本書にはない「アンダー・ザ・シルバーレイク

「イット・フォローズ」の監督デヴィッド・ロバート・ミッチェルによる完全「男子」ムービーだ。
この「ややこしい」時代にこの映画の貫いた心意気こそを至極買っている。まあ言及されないけどさ。


本書でも言及される「ラストナイト・イン・ソーホー('21)」もすごく面白い。個人的にはエドガーライトを「見直した」。それ位出来がよかった。
著者の宇野氏も似たようなことを書きつつ本旨は、監督エドガーライトの男性監督としてのジレンマを中心に語っている。が、オレは少しちがう意見だ。男性監督の男性性なんて、当たり前だから。女性監督の女性性が当たり前のようにね?


ちゃんとポスターにもある彼氏君。この60年代との対比

この映画のポイントはカオナシ紳士達を含む痛烈な「英国紳士批判」であり、この映画が効いているのはヒロインの彼氏が「さえない黒人くん」という所だよ。要するに白人が彼氏ではない点がミソで、エドガーライトは完全にそっちを狙ってるんだよ。つまり辛辣な英国(監督にとっての自国)批判を展開している点がキモ。話はそれるが言及しておく。



◉2010年代の社会思想史(←自分の感慨篇)

この本の中で「ブラック・ライブス・マター/Black Lives Matter」という単語もでてくる。
米国に位置しない私としては、久しぶりに思い出したんだよ。そうだった、あったよ、と。
ちょうど10年前の事だ。時系列を追ってみよう。

Black Lives Matter2013-)

#Me Too (2017-)

LGBTQ恒常的だがトレンドとして10年代後半〜

キャンセルカルチャー
2019ー Googleトレンド入り


こうして追うだけで社会思想史の立派な系譜に思うが「ヘイター/ヘイトスピーチ」などトレンド入りする言葉を並べただけでも、2010年代から現在までそのようなディケイドに我々は居る。

これは(今もこうして使っている)ネットの浸透による「世論のデジタル化」の一様態だが、映画それ自体もAmazonNETFLIXなどプラットフォームの拡大によりデジタルの一途を辿っている。

その時代の狭間でぽつんと残される、映画館。
2016年に渋谷シネマライズは閉館し、85年続いた銀座のフラグシップ日劇も2018年に閉館した。



◉ 第3章「最後の映画」を撮る監督たち
◉ 第4章 映画の向こう側へ

そんな様相に涙もでない。
でる涙も涸れるわけだが、このデジタル化の一途へのハリウッドの攻防戦が第3章や4章で語られる。
キャメロンやノーラン、ヴィルヌーヴは映像の、映画館でないと体験不可な映像美に拘り、ネットフリックスの功罪とキュアロンの「Roma(’18)」がもたらした福音、その後名匠の自伝企画が続いたことなど、リフレクションが語られ、フィンチャーが寡作になっていった次第も語られる。


・・というようにクリティカルな様子に自分もパズルを埋めていった。作品を見ていないと想像に留まる点もあるが、とても面白い本でした。



◉で、あらためて感想(←自分の感慨篇)

以下は自分の日頃の感慨だが、敢えて書く。
そもそもこの世界は現在ネオ相対主義真っ只中にあり、ソリューションなき時代を我々は生きているように思う。で、そんな


ソリューションのないモノ・作品


イチをイチと言うモノ・作品。もっと言って「コンテンツ」。もっと明け透けに「消費財」。
さらに言えば作り手の満足をひたすら追うモノに溢れている。これはそっくり自分の首をしめるようだがしかし、この認識を外して現在を見ることもまたできない。

それはイチを百とした時点ですぐキャンセルされる事とも表裏であり、現にこの新書も「現象」を語るだけだ。ソリューションはなく口を噤んでる。ってオレは何が言いたいかというと、この現代社会が


大きな物語と、神の死んだ世界」
(逆転すれば誰もが大きく、神ぶる社会)
(で、誰もが加害者で被害者になりうる社会)


という事態を改めて考えるしかないってことだ。
その是非や良し悪しは置いておくが、事実として、ソリューションのなさはこの世界に蔓延している。
この本も最後は「TAR/ター('22)」の評論で終わるんだが、この映画なんてまさにそう。
オレは失敗作だと断じるが、それは失敗するようにできている、とも言えるんだよな。


TAR には強烈なワンカット撮影がある(教壇のシーンね)


キャンセルカルチャーがキャンセルしていくものとはなんだろうか。
キャンセルした瞬間人はわかった気になり、脳に刺激が通電され、気持ちいいだろう。しかし相対主義の方程式にかかれば、人間の自意識など正負なく霧散する。勝つのはコンピューターだろうに。

そうと知ってか知らずか。
必要なものさえ無作為にキャンセルしていけば、一体なにがのこるというだろう。
要するにアートとは尊厳であり、ベクトルであり、たとえソリューションはなくとも、最後に残された情熱だ。それを絶やしてはならない。とオレは想う。

なぜ絶やしてはいけないのか。
それは(この本でも言及されるが)トム・クルーズが作品をもって示したと言えるだろう。



トップガン:マーヴェリック('22)」は頑なにサブスク・プラットフォームに売り渡さず劇場公開にこだわった。そして見事映画館に人を戻したのだ。興行面は抜いたとしても、多くの人がなんらかの「感動」を持ち帰ったことに変わりはない。

このとき、もっとも大切なことは「想い出」ではないだろうか。

映画館でいい映画に遭遇した時は、その映画館の雰囲気と共に記憶に焼き付くものだ。デートや親に連れられる幼少期なら尚更だ。誰と、どこで見たのか。それらが人間の記憶には大切ではないか。


これは映画のみの話ではない。


リモートは確実に便利などこでもドアだが、それと引き換えに「帰り道」という概念がなくなった。
帰り道、同伴者とトボトボ帰りながらの「反省会」や「どうすんの」から得られる知見は大きい。
が、時代はどんどん「あとはよろしく」的な「味気なくコールドな方向」に世界を押し流している。



さあ。これからどうなるだろう。
面白くも辛辣な、まさに当事者の時代だ。


むろん本ブログもソリューションはどこにもない。
が、一旦整理として書いたまで。では!





追伸:
第2章のスーパーヒーローものは全然追ってないので割愛。「バットマン vs スーパーマンジャスティスの誕生」はガルガドット以外「うんこ」だったということくらいしか言えないし。だが、この業界の空洞化に拍車をかけたという本書には同意する。



マーヴェリックの感想



TENETの感想(前半部)
放射能の扱いに弱い人が「オッペンハイマー
冗談か?と想った。発表時から気鬱に。



70年代、アメリカ映画の覇権を論じたモノ
ちなみにここで「アメリカンニューシネマ」という用語の正体を伝えています。なかなか言及されることのないこと言っているのでよかったらぜひ。2014年(!)のブログ。