知る人ぞ知る加治将一氏。
2007年新潮文庫「石の扉」で初めて触れて以降、折に触れ加治氏の本は何冊か読んでいる。本書は今年文庫本化され、わが極私的第█次信長ブームもありこのほど読了。感想を書きます。
◉歴史観のリテラシー
加治氏の本は「石の扉」以降徹底して「既成概念を疑え」と問いつづける。この本も例に漏れず、一般的な信長像を揺さぶってゆく。その独特な推理推論考察は賛否両論が起こるのも、また常だ。否定派は往々にして「トンデモ本」の烙印を押すわけだが、
オレは是
とする。というか、織田信長という希代の、空前絶後の人物にどうアプローチするか。その魅惑の作業は多くの先行研究があり数々の大河ドラマも映画もあるわけだが、反面、400年以上前の事であり1級資料は限りなく少ない。だから「解釈」としてこの本の執る態度があって全然いい、ということ。
それにコレが一番だが
「考えるヒントとして実にいい」。
たとえば彼の出世作「石の扉」では、坂本竜馬の既成概念を脇に追いやった。
日々再生産され続ける「ええぜよ、ええぜよ!がっはっは!」的キャラ押し一本槍で、脱藩のイチ浪人が薩長をまとめられる「わけがないよね?」という、ゴク普通に持ち得る違和感にようやく確からしい考察を示したように、日頃信長のもつ
うつけがぁ! 喝ーっ!
帰蝶! 舞を舞おうぞ・・
じんせい ごじゅうねんんん〜〜・・!
的、いわゆるエキセントリック信長像のゴリ押しで天下など統一できないよね、という真っ当な違和感を持つ人なら、この本は楽しめるでしょう。
「石の扉」で坂本竜馬の後ろにフリーメイソンの暗躍を記したように、本書では信長の後ろ盾はイエズス会(カソリック)であると断定する。信長は洗礼こそ受けていないが潜在的キリシタンである、と本書は語ってゆく。
◉潜在的キリシタン信長
むろんこの信長の「潜在的キリシタン」像自体は今に始まった論ではないが、されど露出もすくなく、オレ自身以前よりずーっと想っていた。
なんでもっとキリシタン的信長を描かないのかと。(ちょっと私的な日頃の感慨から述べます)
そもそも。
信長研究の第一級史料は織田家臣大田牛一の「信長公記」だろう。むろん様々な武将や公家の日記もあろうが信長研究の一番はこの信長公記一択とも言えるし、一般的な信長イメージのタネがこれである。
しかし実はもう一つだけ第一級史料があるにも関わらず、日本の歴史学者がほとんど軽視するのが、
ルイス・フロイスの「日本史」ではないか。
という印象を以前から持っていた。イエズス配下による書だからバイアスもあるだろう。しかし柴田勝家の足軽・丹羽長秀の与力という立場の大田牛一より、フロイスの方がはるかに信長に近い。
ゆえに「日本史」も超第一級史料なのに、みんな「信長公記」からのインスピレーションでおおよその物語ができていることに悶々としていた。本書は冒頭から「信長公記」がキリシタン色を排除して書かれていることを指摘する。
長篠合戦で武田の騎馬隊を殲滅した際に用いられた火縄銃は、少なく見積もっても1千挺。
2千〜3千挺あったとも後に語られるわけだが、いずれにしても大量すぎるわけだ。
それだけ「なぜ」どうやって集められたか。
その軍事力と物量は南蛮貿易以外あり得ず、それも強力なパイプがないと無理ではないか。
イエズス会と結託し、宗教と武器の大量輸入。その大波の中のスポークスマン「織田信長」。
そう看るのが自然だし、それが不服でも半分以上イエズスの代理業を疑って然るべきだ。信長としては軍事火力・流通網・ネットワークがほしい。が、イエズスは武器に布教こそが本命のセット販売だ。
信長は信者か?
それとも利用しただけか?
決定的資料はない。
が、いずれにせよ信長のこの側面を強めるだけで、商業港・堺を押さえ、既得権益・関税を牛耳る本願寺を攻めたのも多面に納得でき、そして戦国のこの時期こそまさに宗教戦争ど真ん中だった、という世界観は妥当だとオレは想う。
本書にあるとおり、
「天下布武」の「布」は「布教」の布でもある。
天下を、布(クロス)と武力で治める。あるいは、
fe(フェ)・・信仰(ポルトガル語)
謁見した宣教師が「信仰」と教えた「フェ」を信長が「布」としたという推論はロマンさえある。
むろん一般論では「布(し)く」と読めるわけで「天下に武力を布く=天下を武力でおさめる」の意だよ、と学校では習うがそれなら「治」でも「統」でも良かったわけだ?
天下「治」武
天下「統」武
そうではなくなぜ「布」だったのか。信長はなぜ「布」を使ったのか。イマジンのしどころだよ。
(あと煩型の諸氏は「天下は近畿をさす」という事らしいが、近畿だろうとそこに権力があれば天下だろうによ!とオレは想う)
◉・・って感想を飛び越えて。
要するに普段「おかしくね?」と想っていたことを補填してくれていて(笑)、ほとんど感想を飛び越え好き勝手書いているが、ふむふむ、そうよねー、そうだったかもなのよー、と読んだのだった。
むろん飛躍しすぎもあるさ。
イエズスが信長をリクルートする過程・プロセスはうーむ?だし、なかなかレトリックに忙しく酔う記述も多々ある。加治氏自身クリスチャンではあるので「キリシタン王国」への思慕もあるように想う。
が、だからなんだろうか。充分面白いのだ。
腰の引けてない推理本であり、最たる記述は天皇を「内裏」表記で統一している点に感じる。
詳しくは本書を読んでもらいたいが(P.33とか)、天皇を「天皇」と律したのは岩倉具視が「王政復古の大号令」を発布した明治以降だと本書は言う。
そもそも「天皇」という表記自体語源こそ古いが、史書の登場は数えるほどで、8世紀でその通り名は「大君」「御門」など40以上に及ぶらしい。
肝心な語源も中国唐の3代皇帝高宗が自らを天皇と名乗ったのを真似、しかし本家にバレないように秘密裡にした、という説を本書は有力としている。
いずれにせよこのような混乱を踏まえつつ、当時らしく「内裏」表記で朝廷の動きを描いている点が画期的だし踏み込んでいると感じる。——結局日本史って「天皇をどの角度から照射するか」だとも想う。いつまでも大河ドラマが保守大衆的なのもその照射角度が一定不変だからなのだろう。
◉本能寺の変の黒幕
本能寺の変の黒幕は誰か。
歴史ファンなら必ず考察する点だ。
本書は「朝廷黒幕」説を採り、そのキャストを光秀+秀吉としている。
朝廷が最終的かつ、決定的に動いたのは信長が「グレゴリオ暦」を採用しようとしたからだ、とする本書の推論はオレには妥当に思える。
「天正」はまさに信長の暦だったが、それでも和暦だった。今度はその和暦すらも廃止し西洋等しく「グレゴリオ暦」にしようと動いた途端、ほぼあっという間に信長は消された、というわけだ。
むろん一説ながら、四百年の時を越え、現代人にも一定のリアリティがあると言えないだろうか。
だって和暦がなくなることを皆、どう想像するよ?
当時の朝廷の本気度と、それに賛同する勢力の動機もわかろうものではないか。
◉さいごに。
本書を読み進めていて、この本がちらついた。
立花京子著「信長と十字架」。
(事実、本書の中でも終盤、加治氏は立花京子氏の書籍に言及するのだが「やっぱりね」とオレは想った)
最高にイカしたタイトルの新書でこれも2007年くらいの発刊だと記憶している。「天下布武」の「布」を布教としたのは立花氏が最初だろう。当時興奮しながら読み今でも本棚に眠っているはずだ!と本棚に走る!
・・が本棚みても、なぜか、ない!
全然ない! で、諦めアマゾン調べたら「絶版」。
ゲゲー・・。 まぢすか。
勢い再読したかったが、家にないうえ、絶・版!
くそー。古本買い直しかい!ってかんじ。
いずれにせよ。
信長死後、イエズス・キリシタン大名により30年進行した「キリシタン化計画」は規模がどうであれ、秀吉・家康の強烈な弾圧により歴史の闇に消えた。
信長の現存資料が少ないのも、信長に対しキリシタン的アプローチと言及が少ないのも、我々が江戸時代を経て、現代に生きているからかもしれない。