わが心のBlog

by Hiroki Utsunomiya

女は女である。

アマゾンプライムにて。
J・L・ゴダール女は女である(’61)」鑑賞。
学生の時以来、20年振りに観ました。
その経年変化で少し感想を書きたいと思います。

f:id:piloki:20201031202659j:plain

スーパーコケティッシュ

____________________


女は女である。
が、男は男だったろうか?


少なくとも、オトナの男じゃない。
勝手にしやがれ。この拗らせ野郎!!
などと思いました、とさ。


いやさ、アンナカリーナ。そりゃかわいいよ。
映画自体「彼女が撮りたい!」って動機で充満している。なんたって役名アンジェラは「天使」だ。
アンナカリーナの存在イッパツを愛でる映画。それの何が悪い?って映画だ。彼女を見事ゲットした若き日のゴダールの、悦びオーラ爆発多幸感に満ち充ちている。そこになんの衒いもない。拍手。
勝手にしやがれ」とこの「女は女である」で当時時代をパンチアウトした力は今観ても頷ける。
【自主映画の世界的インフルエンサー】の誕生だ。そこに敬意も凄みも「映画」自体もある。
それに60年前の映画にとやかく言うことは無粋だと痛感しつつも、だが、敢えてつっこんでみたい。


問題は、 エミールだよ。


f:id:piloki:20201031202817j:plain

エミールくん

経年変化として彼エミールは、時代が下れば下るほど「厳しい存在」になってゆく運命にある、ということ。そもそも瞬間保存されたスーパーコケティッシュ・アンナカリーナ(アンジェラ)が

「この男のどこに惚れたのか」

その前提がまず理解できない。エミール役ジャン=クロード・ブリアリはいい役者だが、ベルモンドほどの魅力はないし、この役に説得力を保たすには、どこか生真面目な個性を感じる。(ベルモンドだってギリギリだよ。てか彼ら二人の職業はなんだよ?アンジェラの仕事はわかるが奴らはなんなんだ!)

故にエミールの一連の「強がり」は物語自体が持つ「ゼッタイ破局しない=だってこの映画ラブコメだもん」という檻の中でしか機能しない【危うさ】を今現代としてはどうしても感じてしまう。
本で痴話喧嘩。いいよね。
だが「すべての女は死ね!」とかさ。どうなの? 挙句「誰かこの子の子供を作ってください」だぜ、街中で?


おいおい、どんだけコジラせてんだよ。


同時に想うよ、なんて大らかな時代だろう!と。
(もっともアンジェラだって、コジラセてないとは決して言わないけどさ!)
物語が「結ばれる」から成立してるだけだろうに。その危うさ。他も「今として観ると」ギリギリアウトなセリフや行動もあるがとにかく、これがゴダールのNo.3 というわけだ。なおオレ個人は石川達三の小説「僕たちの失敗('62)」を思い出した。

で当然ながら、エミールはゴダールの分身だ。

ここに、彼の映画作家としての旅の始まりを視たような想いもある。60年前の伝説的映画。というか「決定づけた」映画。ゴダールは当時のヘッズ達を熱狂させた。ウォンカーウァイに90年代のヘッズが熱狂したように。けれど、今見ると


女の魅力はまざまざと生き残り、
男のイデオロギーは死屍累々・・ではないかな。


むろんこんな感慨を60年前の映画に言っても仕方ないんだが、畜生、いい時代だぜ全くよ!!
と逆ギレしたくもなるのです。


冒頭スーパーにこれから始まる全てが宣言される。

コメディ ミュージカル 演劇的 と。
その通り演劇的。
でコメディでミュージカル。
(へえ、冒頭にルビッチかぁとは思った)

だからゴダールは間違ったことは言ってない。
映画文法の解体、と言っても当時サルトルなどが提唱した哲学・実存主義の流れだよ。「カメラ目線」という手法一つとってもリアリティの再定義だし、まさに60年代の幕開け。だからこそ新鮮で、時代に祝福された瞬間でもあったのだと容易に想像もつく(ちなみに私は今も嫌いではない、実存主義。それとゴダールサルトルの関係には不勉強でこれを書いてます)

f:id:piloki:20201031204403j:plain

白い部屋の中、赤いニットのアンジェラと青いジャケットのエミールは「痴話げんか」する。それってどういうこと?って映画だし、終盤の(十時をきった)不貞からの二人が出した結論は、それこそ真面目に語っちゃいけない「現象」だ。
(でこれも改めて、だが、そんな哲学とリアリティを内包していた60年代のフランス映画は当時最先端だった。70年にアメリカは彼らを迎えるんだ、その名も「フレンチコネクション」さ。面白いよね)

・・という諸事の再発見に自分もオトナになっちゃったんだなと感じる。やいのやいの感じながらも、20年ぶりの鑑賞は二度に渡ってしまったもの。「エミール、おまえ!」など言いつつ二回観た。笑。
要するにそれだけ愉しみました。

もう一つ書くと、
そんな「コジラセ」男は、天使を失う。

ここが本当の意味でのリアリティだ。そんな中盤部の喪失感は今観ても普遍的ラブストーリー。
で、そこに固執しないところが映画作家としての、また観客の「好み」の分かれ目でもあるでしょう。
女性の多くがこの映画が好きなのもよくわかる。見終わると髪を結びたくもなるのだろう!そんな諸事情をぶっちぎってアンナカリーナがキュートすぎるからだ!

f:id:piloki:20201031210044j:plain

最後に。
改めて映画のルッキズムとは? という命題もホント考えこんだ。90分ひたすらアンナカリーナの魅力に賭けているような映画だから。

その美と魅力は、ストリップの同僚、エミール達が連れ回す女性たちの「ルック」と比較すれば明らかで、この主役が当時のアンナカリーナでなかったらこの話、成立したんだろうか?と。物語はあってないようなものだし、素材イノチだからだ。
ましてや「リアル」な配役など施した日には目も当てられない話になっただろうことを想うと、映画のルックとは何かを考えざるを得ず、これは60年の月日をぶち抜いて命題たり得ている。



さて。そんな「女は女である」鑑賞でした。
秋の夜長に見てみては? では!