わが心のBlog

by Hiroki Utsunomiya

ブレードランナー2049

ブレードランナー2049鑑賞。
TOHOシネマズのドルビーアトモス。日曜日のレイトショー。
今日はこの感想。当然、ネタバレします。見てなくて見に行く人はそのあとに。

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さて、まずは前作の話。世紀の傑作「ブレードランナー」。日本公開、1982年。
あのまずね、オレがどんな映画ファンにもジマンできることの一つとして、


ブレランを封切りの映画館で観てる


というものがあるんだよ。 どうだ!!このやろう。
むろん吹聴するのもばからしいのだが、動かない事実でもある。オレは映画館で目撃している。
あのすぐ不入りで公開も短かったその映画自体に、当時立ち会っているんだ。
当時小2か。それも家族で観にいってるからな!(なんだこの家族。探せばパンフもうちにあるぞ)
でもね、ジマン話でもなんでもなく


このことは、デカい。でかすぎるのだ


なぜか? それは時を経たリファレンスにものすごく役立つからだ。
だって自分の中の第一級資料として、その映画館体験があるのだ。これはでかい、どうしても。
その後のブレードランナーが与えた文化的隆盛と、1次体験とをリファレンスできる。当時の匂い、受けた衝撃とともに。当時小2だ。なんて暗い映画なんだと思ったよ。雨ばかりのナイトシーンでさ。でも、黄金のタイレル社が見える瞬間や、プリスのジタバタだとか(あれは怖かったなぁ)、なによりロイバッティの迫力を昨日のことのように覚えている。で、その後何度も何度も見るにつけ、とんでもない映画だな、と印象も新たにするのだが、しかしそれはアトヂエでもあるんだ(初めは暗く怖かったんだから)。まざまざと映画館体験が自分を補完してくれる。(だからみんなも、評判や知識にたよらず映画館ってのは覗いた方がいいよ、ってハナシ)

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さて、そんなわけでブレラン2049。そりゃ観に行くでしょ。
ロードショー1週間でほとんど評判を聞かなかったからやな予感はしつつも、そりゃ行くよね。
で、見た。感想


しょーがないよね


という感想に支配された。しょーがないよ、これは。
監督のドゥニ・ヴィルヌーブさんはよくやってるよ、と。


リスペクトしすぎ


とは思った。が、じゃあリスペクトしなかったらどうなる?って側面も考えてみたまえよ、と。
つまりこの企画自体、どう転んでも「しゃーない」っていう落としどころになろう。
で、そこを大前提にあえて言うならば、

最初の1時間がたいくつすぎる &
脚本がしょぼい

っていう点をあげたい。

これは160分以上ある映画だが、3分の2には刈り込めると思う。ただ、今作のヘソはなんだ!?ってヘソをつかまないとそれも難しいだろう。まずは前作は未来をレトロフューチャーの、フィリップ・マーロウ的フィルムノワールにしたからカルト的人気につながったし、それがスタイルになった。「生きる尊厳」を求め暗躍するネクサス6型と、とにかく弱いデッカードの探偵業という構図が前作ではバチッと決まっていた。まさに「チャイナタウン」だよ。

今回、出だしのミステリー具合こそ良かったが、どんどん弱含んでいった。ジャレットレトはよくわからん創造主だし、そのエージェントの女戦士が今回のライバルになるんだけど、うーむって。しかも最後の方にはなんだか「パルチザン」的ゲリラまで登場! この「パルチザン」って記号は出しちゃだめだろ!オレはトムクルーズの近未来モノ「オブリビオン」的失敗感を想起したよ。あるいは「ダークナイトライジング」的失敗感と言ってもいい。
さらにネタをばらすと、デッカードとレイチェルのコドモができており、それはありえないことで倫理的にも重要な事件として双方追う・・・ってもう、いわゆる昨今のリメイクものを地で行くかんじ。

あのさ、そこまでリスペクトしなくてよくね?

デッカードが登場すること自体はいい。むろん嬉しい。得した気になる。でもさ、そんな矮小なハナシにしてんなよ、と思ったわ、脚本。逆説だが、そんなに重要人物として扱えば扱うほど物語は陳腐になっていくのだ。この逆説の罠にこの映画は見事に飲まれて行った。
科白もしょぼく、オリジナルの矛盾を回収しようとする説明ゼリフはさることながら、一番がっくりしたのは、女エージェント戦士の「この子犬ちゃん!」的見栄を切る科白にぎゃふん!(さ、さむい)と思った。。ただのアクション映画なの、これって?みたいな。ブレラン見てて寒いなんて思いたくはなかったなぁ。 あと、近未来ギミックも「どうです、こうなってますよ、すごいでしょ」的引っ張りも多くてなぁ。。これってまず切るところだよね、昨今のラインとしてはさ・・・

ラストシーンも監督を思いオレは悲しくなった。
だって、デッカードは生き、K(ライアン・ゴズリング)は死ぬのだ。
これってオリジナルは生き、続編は死ぬってことだよ。なんか、悲しくなった。
どれだけプレッシャーの許、作られているんだろうかって本当に思った。リスペクトし、物語を回収し、誰にも知られずに死んでいく。。これで良かったのだろうかって思いました



グッとくる点もあげておきたい。
そりゃね、「スピナー44」が写ったときはホントにグッときた。デッカードはこのクルマを30年以上大切に保管してたんだからね。それとね、ガフも出てる!!
ショーン・ヤング(実は当時ハリソンとめちゃくちゃ険悪だったらしい)も間接的に登場するし、そのコピーも登場する。しかしこれは監督への哀しみポイントにもつながってしまう。つまりコピーである、と。この映画はコピーなんだよ、っていうメッセージにも見えてやや複雑な気分にもなったのだ。


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ロジャー・ディーキンスの作った画はもう、すごいリッチですよ。
そりゃもう。R・ディーキンスだもん、ってかんじ。しかしそこにナニが乗ってるかこそが、映画なんだ。物語がドライブしないことには、どんなに流麗なカットも「きれいだよね」で終わってしまう。ハンスジマー率いる音楽チームも「これでもか!」ってくらいヴァンゲリスサウンドを踏襲している。おそらくCGチームもオリジナルの金字塔である「ダグラス・トランブル・オプチカル」をかなり研究もしている。もう、そういうことの連続で超リッチなんだが、「でもなぁ」がつきまとった。(美術もキッチンのリスペクトっぷりに驚いた。が、メインのリビングの貧相はKのキャラ演出なんだが、評価はわかれるだろう)

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最後に、ライアン・ゴズリングとハリソンフォードについて。
いつか書きたいが、最近のはやりとして「現代俳優術3.0」があるんじゃないかって思う時がある。
その筆頭がライアン・ゴズリングだと思ってて。

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で、ゴズリングの演技って、うすいんだ。とってもうすいの。ここに現代の俳優術も潜んでいるが今に始まったことでもなく、存在で見せていく手法とも言える。ある意味「ケン・タカクラ・メソッド」だ。
しかしね、それで160分持っただろうか? と言いたい。
ハリソンと同居すると、それが如実にわかる。
その豊かな表情と同居すると、いかに全盛期のハリソンフォードが素晴らしかったかが透けて見える。どこにリアリティラインを設け役を設定するか、ではあるが、ゴズリングはいっつもゴズリングだ。
もっとも彼のトレードマークは「自己犠牲」にある。
出世作「ドライブ」でも今作でも、自己犠牲のシーンこそ光り輝く。だから最後にかけてはとてもいい。しかしドライブしないストーリーと相まって《なにもしない》をする、その設計はうーんちょっと正直「他にはいなかったんだろうか」ってオレには思えた。そんなKというブレードランナーだった。


いやもっと考えればこのKでいくとしても、どうしても脚本(と映像)がハデなデコレーションなんだ。
もしかしてオレのこと?って思って違う、というものすごく良いテーマをこの映画は持っている。その自意識の期待と落胆、引いては人間になりたかったものへの感情があふれている。
もっと言えばこれは《中心になれなかった者の物語》であり、そのテーマ性は現代を貫いている。
ここにもっとフォーカスして脚本・ストーリーを収斂させればよかったのに。
なってはいるが、しかしあまりにもレスペクトやTo Doに忙しく散漫と言わざるを得ない。そのために160分は使いすぎだ。もっとシンプルでいい!この点こそがもっと光り輝く映画にしてよかった。

いや。もっともっと詰めると、最後の自虐含め、作品自体が《中心になっていない》わけで、監督はテーマを完遂したわけだ。が、それは悲しいよ。そんな見方でもう一度観てもいいけど・・かなしいぞ?
とにかく、このことが先に言った「へそ」である






以上、一気に書いてみた。
とにかくヴィルヌーブ監督っていいヒトなんだろうな。ってホント思います。(カナダ系)フランス人らしく「ジョイ」がフランス人が好きそうな容姿だった。あと、スピナーをプジョーにしてた!
観たヒトはどう感じましたか? ではでは!



(11/08 冷めたところでちょい加筆。)