わが心のBlog

by Hiroki Utsunomiya

恋愛映画というコモディティ


2013年の秋。4年前に書いた記事を、(こっそりと)上げます。
読み返すと、マトモだったから。見つけた人は読んでみてください(2017年12月8日)


恋愛映画というジャンルがあるとすれば、そのジャンルはもうかなり飽和して前進がむずかしいところがある。
負けをみとめるわけではなく、とにかくそんな気がする。
好きな言葉じゃないが、コモディティ化(均一化・平均化)してはいないか? 出演者やシチュエーションは変わるが、新しい表現がむずかしい、ということ。その難しさを認めないことには、新しい表現は始まらないのだ。どうしたら全く新しい恋愛が描けるか? どうしたらゲームをチェンジできるのか? この現代の映画制作者たちに与えられた命題ではないだろうか。 そんな気がする。

Annie_Hall_thelast.jpg

たとえばアメリカの恋愛映画は「アニーホール」という発明からなにも変わっていないんじゃないか?
ブルーバレンタイン」であれ「エターナルサンシャイン」であれ、古くは「恋のゆくえORためらい」であれ。 渋谷という街がいつだって若者の街であるように、手を変えアップデートされ、同じことが言われている。一組の男女が出会い、そして別れるまでの話。 たいてい、育むべき「何か」は台無しになって消える。どちらかが、愛を殺すから。
「自意識」でくくると、どことなく4つの性格の男女がいて、4種の恋愛映画のカタチが見えてくる。

◆アニーホール型 = 自己愛(自虐)を謳歌。それだけに人を愛したい(愛し方が分からない)
◆ベティ・ブルー型 = 世界はあなただけ。でもその存在の耐えられない軽さったら!
◆アニー/ブルー マイナス型 = 愛せず苦労、世界はあなただけをうとましく思う
◆アニー/ブルー プラス型 = セイ・エニシングや天才マックス。愛上等、世界上等!

F&J.jpg
(ちなみに上図は「恋のためらい」('91))
これは完全R35指定。マイナス/+型恋愛映画。R35のみなさん、これっくらい頑張んないとダメよ?という拳の固〜い映画である(アル・パチーノは完全なミスキャストだけどな!)


恋愛映画で男女のジャマをするのはなんだろうか?
それは、その時代そのものだ。時代がその時々の男女の性格と貞操観をつくり、お互いを、ときには自分自身をジャマする。彼らがなにを仕事にしているかも、原則、時代に則す。 だから不景気だとめっぽう暗い恋愛映画が出来る。

恋愛映画はひとつの時代劇なのだ。時代劇ということは、様式美を内に隠す。どんなにオリジナリティがどうのいっても、男女だ。 実は、そこまで、新しいモノは、いつだって、ない。すなわち現代の面白い恋愛映画とは、ミックスに成功した作品。それ自体をさすようになって久しい。

どれだけ共感のパイを、奇をてらわず広げ、古いモノを新しく見せるか。
たとえば、A・ペインの「サイドウェイズ」。(この映画が純粋に恋愛映画か?は置きます)

sideways1sepia.jpg サイドウェイズ('04)

このサイドウェイズ('04)。やたら面白い映画だが、作者は注意深く共感をあおるようコンプレックスを刺激する。 ペインの才能は疑わないがしかし、この手法自体がリミックス/ミクスチャーに思う。(このスチールの4人が見事に上記四つのタイプに分類されているのだから。)

ここが問題である。

この、リミックス/ミクスチャーの練度が時代につれ、はげしくなっているだけかも?、という仮説。
アルフィー」であれ「ハイフィデリティー」であれ面白いが、究極「アニーホールX(エックス)」なのではないか。あるいは、ストレートプレイ系を観るとそれこそもう、時代を逆流するような、既視感に襲われることも多い。「ブルーバレンタイン」なんてもう、力学が科学だし観察だよ。ソリューションが見えない。

恋愛映画とは、時代じだいでアップデートするリミックス業なのだろうか。それを楽しむべき、様式美の世界なのだろうか? それでいい、と言ってしまえばいいのだろうか? そろそろみんな、愛を殺すのはやめようぜ!ぎゃくに芸がない! カ・・・カハッ!!(自爆&吐血)

alfie.jpg 現代版「アルフィー」('04)

 

アルフィー」を観た後、
「ナインハーフ」→「アニーホール」→「道」を順に見てごらんよ。

ブルーバレンタイン」の後、
ベティブルー」→「存在の耐えられない軽さ」→「ある愛の詩」を見てごらん。

「ラブアゲイン」の後、
天才マックスの世界」→「セイ・エニシング」→「小さな恋のメロディ」を見てごらん。


もう、なんかこのジャンルは食い尽くされていることに気づくから。


むろん類型化は多くの差異を犠牲にする。
コモディティだのなんだの言って、単体のもつ魅力を忘れている。
いままでツラツラ書いたことはすべて間違っている。

「われわれは次の若者のために、ヤキ回してでも同じことでも、何度も説かねばならない」

そうかもしれない。

「全く間違っている。リミックスなどない。一つの作品に一つの情熱が具わっているだけだ」

そのとおりだ。 が、そうだとしても、このままでは映画という文化は窒息してしまうだろう。
「あ。A定食ね」というように、どんどん飽きられメディアごと忘れられてゆくかもしれない。オレもふくめ作り手の多くは自分好みの男女感、自意識、忘れられない疵を描きたくてウズウズしている。しかしそれが、前時代にほんとうに描かれてないのか? より素晴らしいのか?という問いはいつだって大切であり、有効だ。

500days_of_summer.jpg 500日のサマー('09)

帰結のまえに、先述の「サイドウェイズ」と「(500)日のサマー」という映画について言及しよう。 これらの作品で感心するのは実は、リミックスがうまいからでも、ひけらかしているからでもない。

それらの要素は他の作品にもあり、この2作も定食と言えばまさに定食である。
が、そこにちゃんと5コマ目が描かれていること。そのことに可能性を感じるから「残る」し「クる」のだ。4コママンガでいう、5コマめ。これが大事すぎるのである。

もはや現代の恋愛映画がミクスチャー然とした様式美(≒コモディティ)が土俵であるぶん、ラストの出来ひとつで、その映画がもつ思想と態度のすべてが出る、と言っていい。サイドウェイズがノックで終わること、500日のサマーを経たあとに、オー◆◆がちゃんとあること。
些細だがこれだけで、多くの「思わせぶり」作品群よりはるかに思想が前進している、といえるのだ。そして人々は「映画もまんざらじゃないな・・・」とココロから拍手を贈ることができるのだ。オレもこの2作には心から拍手を贈ることができた。ぎゃくに(500)日がサマーで終わってたら、物をぶん投げていたよ。

しかし、振り出しに戻ってみる。 あらためて。あえて。
ゲームチェンジは、どうすればできるだろうか?
昨日までの世界でほんとうに描かれてないのか? より素晴らしいのか? アニーホールXでも、ベティブルーXでも、ましてや最近の作品群でもなく、時代も相手にしない。それは、非常にむずかしい。それに意識せずともなにかに似るだろう。ミッション・インポである。

でもむずかしいからこそ、挑戦する価値のあるものだ。
たとえつまらなく地味だって、未開の新しい可能性を示すことは、どんなに面白い映画より貴い。そう思う。



《追伸》あ! ひとつだけヒントが見つかった!書いてみるもんだ・・これもリミックスに映るのかな・・。ともかく火種としてココロに灯す。 この記事を公開するのもかなり逡巡しました。だってクビを絞めるだけだもんよこりゃ・・・
しかし仕方ない。考えていることに、変わりないのですから