わが心のBlog

by Hiroki Utsunomiya

わが告白 ー解煙ー

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今年も暮れるので、(とっとと)報告してしまおう。

解煙しました

禁煙を解いた、解煙。
10月の幾日からか再び、たばこ(愛用はアメスピのメンソール系)を(本格的に)吸い始めた。
その時は大きな案件の編集最中だった。うまくいかないことも重なり、わが誘惑に乗った。しかしそれはただのトリガーにすぎない。もうそこからは何事もなかったかのように、普通に吸っている。


2015年の誕生日から始めた禁煙。この初動1ヶ月の凄惨な記録は(笑)、ここにまとめてあるので、置いておきます。今読んでも当時にフラッシュバックするナイスな記録だ。ランキングの2位の項目で良いことも書いてある。

つまり(喫煙・禁煙時のトリガーは)、彼女に似ている、ということ。それも悪女だ。
「そーいやあいつイートコあったなぁ」
「久しぶりに電話すっかなー、吸っかなー」。
しかしこれは当然ながらリアルへの合わせ鏡だ。ここでも残念ながら人生は「リア充」を求めやがる。くそやろう。ファッカ形式主義。常位でも書いたがそこまで(思ったより)人生なんて・・・ねえ?


だから2年半ほど続けたことになる。
と言ってもその後のオレは、2年目位からルールを改正した。「心の置ける人との会合では《もらいタバコ》してよい」と。そのもらいタバコの旨いことうまいこと。沁みるよねぇ。ほら、海外に暮らしていると日本の良さがわかるのと一緒である(笑)。沁みるほど、うまい。その記録はここにあります


この記事から半年くらいかぁ。
本数は数えるほどだったが、すでにそこから深層のメロディーははじまっていた、ということになる。ただ、一人で居るときに吸うのは禁忌していた。それだと際限なく《はじまる》からだった。

そんな自分の禁煙生活は2年半でご破算となった。
あの禁煙開始の壮絶さを思いだすと、やめるとすると「またアレをやるのか。もんどり打ってジタバタすんのかぁ」という感慨になる。そうとうタフな作業だ。

が、今はその改変プランはない。当分解煙は続くだろう。
(むろん禁煙時のマインドも補間され、お店が禁煙・友人が嫌煙などに全く抵抗なし、ですよ)

記録の最後にも自分は告白している。「なんでこれをするのか、よくわからん所がある」と。
そのハテナは禁煙中もずっと続いていた。つまり、さほど動機がないのだ。目的と言ってもいいが、そこが手薄だ。むろんお金はかからない。しかし味気ない。金はセーブできるが、しかし・・・が続いていたということ。
むろん、これらが《中毒患者的妄想》であることも知っている。タバコを吸ってイイ自分に自分を塗り替えようとしているだけ、とも言える。それくらい研究したし、例の黄色本も当時読んでいる。
が、とにかく吸っている。


結局のところ、相対的なものである。ダイエットも。禁煙も。
周囲に気にかける人・気にする人がどれだけいるか、その強さと自力を天秤にかける、ラブアフェアーではなかろうか。《変わろうとする意思》、それこそが多くの人にとって第一級の命題だからだ。
それに止めることには熱心でも、止めた先のリスペクトというものに手薄いのが世の常ではないか。
そのことも《DAY14》にはちゃんと書いてある。これはニヒルからやイジケて言うのではない。そういうものだからだ。友人でさえ、自分が吸ってない状況に気づきさえせず、いわんや芯喰ったひと言なんかもらえないわけだ(笑)。案外、ヒトは他人を観察していないものである。それに《自己律と中毒とラブの関係》はラットパーク実験でねずみでさえ実証されている
(うるさいオレのなかのオレは、要するにいちいち自意識を自覚することを美とするぞこのやろー)


というわけで、年末の報告、にとどまる。
オレ、たばこはじめました。


最後にわが禁煙ブログ、《DAY7》より引用する。

それらの恋愛が なんとなく
決定的な「No」のない中
未練に震えながら 終わるように
なんとなく次のモノゴトへいってしまう

ひっかかりと忘却のあいだを縫うように
禁煙という代物も
決定的でドラマチックな何かもなく
いつのまにかそれ自体さえ
おわるのではないか?