わが心のBlog

by Hiroki Utsunomiya

エンケン・雨あがりのビル街

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先月歌手の遠藤賢司さんが他界した。70歳だった

通称、エンケン
今では俳優の遠藤憲一さんのあだ名で通っているが、知るヒトにとっては「エンケン遠藤賢司だろ!」となろう。自分もここではエンケンとして、遠藤賢司さんに敬意を表したい(以下敬称略)。

自分のエンケン体験は学生時代だ。
当時国分寺に住んでいた友人、長坂宅に自分は完全に居候していたのだが(向い口に自分の下宿先もあるのにw)、その彼が教えてくれた。やばいアーティストがいる、と。そこで、アルバム『満足できるかな(’71)』の「カレーライス」を聴き「待ちすぎた僕は疲れてしまった」を「早く帰ろう」を「君はまだ帰ってこない」を聴いた。捨て曲など一切ない、紛うことない名盤だった。

なによりそのフレッシュさ、エバーグリーンな感性に学生だった自分は共感した。その、独尊立歩な、あるいは自分以外のガールフレンドや外部への眼差しに、当時めちゃくちゃ共感したのだ。
それはライブ盤『遠藤賢司リサイタル(’73)』の「Hello Goodby」という絶曲に結実するのだが、そんな《ふざけんじゃねえ》魂と底抜け感はなんだろう、結局のところ、今の自分すらロックしている。




エンケンのその後に自分はあまり詳しくない。多くの初期のファンと同様なのかもしれないがサード以降『東京ワッショイ』『宇宙防衛軍』の感性には反応できず、追わなくなってしまった。むろんこれは自分自身の感性の話でありあらためて聴けば、感慨と発見にわくのだろうと信じる。
とにかく独尊立歩で、素敵なすてきなアーティストが、この世を去った。


今年。エンケンががんに冒されてるなか、にわかに動きがあった。
それは細野晴臣の働きかけ(と記憶する)で、エンケンのレコードが再発されることになったのだ。自分はその報せとともにファーストアルバム「NIYAGO」を予約し、その発売を心待ちにしていた。
間に合ってほしいとも思った。本人だって、どれだけこの再発ラッシュを待ち望んでいることだろう。
しかし10月の末エンケンは他界し、今週、そのアルバムは届いた。

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ふしぎなもので顔見知りの佐川の配達さんからではなく、エンケンからもらった気が、したのだった。
それはあまりにも勝手な、勝手な自意識だが、そう想った。
2ND『満足できるかな』ではなく、1stアルバムのこの『NIYAGO('70)』がオレはどうしても欲しかった。なぜなら「雨あがりのビル街」という絶曲が収められているからだった。


雨あがりのビル街
この曲は日本音楽史にあって、屈指の絶曲である。
ビートルズの「NorwegianWood」(ノルウェイの森)の影響を隠さず始まるこの歌の世界は、とても内省的でナイーブで、一見、日常のワンシーンをたしかに捉えきった賛歌のようにも思う。が、これが録音されたのが1970年であること、前年までの安保闘争という時代背景を同時に想うと、強烈な思想も劇的に、鮮烈に浮かび上がってくる。



これは詩人のしわざだ


こんな名曲はそうそうなく、
何度聞いても、ドラムの入る瞬間にクルのだ



デビュー前のはっぴいえんどの面々が、初めて録音に参加したアルバムでもあり、リードギター鈴木茂、ベースに細野晴臣、ドラムス松本隆がこの詩人の歌を支えている。が、これは結実の豊潤な内訳でしかない。エンケンが去った日。オレはなんどもなんどもこの曲を聴いて、彼を弔った





雨あがりのビル街 遠藤賢司


水たまりのなかに 大きく ゆれた街
しびれをきらした みんなは
ゆっくりと 歩きはじめた
しびれを きらした自動車は
急ブレーキをふむ


ぼくは 人を待ってたんだ
もう ずっと前から ぼくは人を待ってたんだ
もうずっと 前から


ちっちゃなちっちゃな おんなの子が
ちっちゃなちっちゃな 足音をたててた
それは ほんとにとても
ちっちゃな 足音 だったけど
ぼくには とても 大きく響いたんだ
だからもう 帰ろうと おもった

ぼくは 人を待ってたんだ
もう ずっと前から ぼくは 人を待ってたんだ
もうずっと 前から