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わが心のBlog

by Hiroki Utsunomiya

史上最強の哲学入門

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クソ、がつくほど面白いです。 飲茶著 「史上最強の哲学入門」。
右が第一弾で西洋哲学、左がつづく「東洋の哲人たち」。
 
 
近年まれにみる、読書体験でした。(おっと。これも「同化」ですね)
とくに「東洋」篇の出来たるや、すさまじく感動!耳、赤、たとえにハンパなし!
「西洋」篇もここまでガイドが行き届くと、流れを追え、時空を超えた反復すら明快で超絶ためになる。
人生を「真理」に捧げた哲人たちの飽くなき、闘争。「サトリ」という伝達不能の奥の奥の停止の停止。そして今、が言外に拡がっています。両書とも大推薦します。
なんでも、つづく第3弾は「中東(イスラム)哲学」に分け入るらしい!
発売日に買ってしまいそう…
 
 
【追伸】いま、2巡目(笑)。
    それだけただならぬ愉しさがある。 その感想は順次、「続き」にて
 

 
第一弾、西洋哲学の「真理の真理」篇を読み直す。もーアレですよ、中古転売なんて考えてないから、ボールペンで線引きまくりのメモしまくりです。
たまにやります。こうすることで、頭に入れるのです。
自分で「書く」ことは本当に大事です。それだけのホンですよこれ。
 
 
さて、そんなわけで第一弾の第一章。 西洋における「真理の真理」の旅。
 
 
プロタゴラス(BC410) →ソクラテス(BC399) →デカルト(AD1650)
→ヒューム(1776) →カント(1804) →ヘーゲル(1831)
キルケゴール(1855) →サルトル(1980) →レヴィ=ストロース(2009)
《→デューイ(1952)→デリダ(2004)》 →レヴィナス(1995)
 
()内表記…没年
 
 
このホンはこんなリレーで「真理の真理」の旅を紹介しています。
ソクラテスからデカルトまでなんと、二千年の開きがあります!
が、これもこの本を読めばすんなり理解できます。それだけ宗教の時代は「真理」にとって暗黒だったのだ。
 
《》でくくったのは、ボク自身。
デューイの(アメリカ人が大好きな)プラグマティズム実用主義」、そしてデリダの「脱構築」は弱い、というか対処療法的であり、「真理とは!」という真摯さからはどんどん離れてゆく気がするのだ。
 
じっさい、デューイ、デリダって聞いたこと、あります? ボクは知らなかった。
とくにデリダの「脱構築」。 これがね、腑に落ちない。
デリダは真理とは「理解」ではなく「解釈」だとしています。 なので解釈分、真理はちがう。「真理なんて西洋のおごりだ」と爆弾を落としたレヴィ=ストロースの西洋批判、ひいては現代哲学の理性批判、真理批判という「トレンド」から出た(であろう)デリダの「脱構築」論ですが、
 
 
理解ではなく、解釈なんだから、人それぞれだよね
 
 
ということで、一気に紀元前のプロタゴラス(BC410)の相対主義まで巻き戻るのだ。
で、それはちょっと哀しいぞ。なんとも釈然としない、と思う。
 
今回その話をする。
たとえば映画の、あるいは演劇の台本がここにあるとする。(映画・演劇自体が(前時代的な?)まさに「構築」系だからなんだけれど、話をすすめる。)
その台本を俳優がよんで、
 
 
「ふむふむなるほどね、でもオレはこー思うんだよね、こー演じたいんだよね!」
 
 
大いに研鑽結構だが、それがドラマツルギーに反しては、結構ではない。
つぎにその役をうけて、姉の科白が「あらあら、そんなに取り乱して」とあった場合
 
 
せめてある程度以上、取り乱してないとこまる
 
 
のである。(これは実体験でもあるが。)
そこで俳優が自分を良く見せようと「取り乱さず」演じられても、姉としては困るし、演出も客も困るわけ。「受け手の解釈なんだから、人それぞれだよね!」ではすまされない、なにかは確実にある、ということ。(ドラマの文脈を理解した上での行動の「適用」に、いやでも俳優の個はでる。で、それでいいとおもう。)
 
 
つまり、やみくもな「脱・構築」は迷惑なだけではないだろうか?
 
 
デリダのパートを読んでフツウに思ったり、した。
しかし時代は待ってはくれず、「受け手の解釈」が拡大し猛威をふるってる気がするがどうだろう。ボクにももちろん憶えがあるが、ちょっとこのデリダさんの論は《》カッコだな、としたい。(し、オレ自体が理性や青臭い理想が好きなんだなとおもうわけ)
 
 
今、ココ。