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わが心のBlog

by Hiroki Utsunomiya

負荷と罰

日本語

負荷を与える、ということと、罰を与えるということはまるで、違う。


「このやろう!負けやがったな! 罰として校庭10周だ!」と、
「このやろう!負けやがったな! 負荷として校庭10周だ!」だけでも、相当違う。


決して語呂遊びしてるだけでもない。「罰」は「罪」に対するもので、直線的だ。
状況によっては因果関係すら乏しい。 負けた罰として校庭10周の場合、なんで校庭10周走らなくてはならんのか、ほぼ問答無用だ。 しかし「負荷」として校庭10周の場合、選手は考えるスキが、かろうじてある。


A「なんで校庭10周なんすか!」—「バカヤロウ!刃向かう奴は こ う だ !」
B「なんで校庭10周なんすか!」—「良い質問だ!体力がないから貴様は負けた!」


Aは罰である。問答無用の上意下達、護送船団方式である。敵前逃亡は軍法会議にかける!
Bは負荷である。「そっかぁ。僕たち体力をもっとつけなくちゃ!」となる(はず)。
AもBも痛みを伴うことは同じだ。
しかし負荷のほうは、ワンクッション、選手の中に留まる何かがある。 要因に対する科学が、負荷だ。 鍛えるって、つまり負荷なのだ。
好きこそものの上手なれ、とはそんな負荷を自分で嬉々として行ってしまうゾーンを言うのだと思う。いわんや自分で負荷を発見することができる。なんて貴いことだろう。


負けるのは罪。
だとすると負ければ罰がある。になり、「負けるのが怖い」となり当然不健康だ。
負荷が足りないから負けた。
だとするとどんな負荷を作れば勝てるか、と今後の設計にもなろう。
当たり前だがだいぶ違うでしょう。


柔道を「武道」と看るか、JUDOとしてスポーツと捉えるかなどの議論もあるが、別にどっちでもいい。向かうステージが(真剣)勝負である場合、どのみち「負荷」は必要になるからだ。

相手より技術は上か? 体力はアルか?
だし抜くアイディアとひらめきをもっているか?

そういうエッセンスのなかに、カラダやココロに対する「負荷」は必ず訪れる。
とくに3つめの「だし抜くひらめき」なんて体罰じゃゼッタイ無理。ボクが言い切る。
どれだけ空間や客観性、常識に囚われずココロを開放するかだ。 要はジアタマだぜ?そういうセンシティブな負荷を与えられてっか? え? 体育教官よ!(おっと。。感情的になり申した)


ちょっとジャッキーチェンの初期傑作群をもう一度見返した方がいい、体育教官たち。
お師匠ソカシは弱いジャッキーに負荷を与えるよ? いろんな方法でね。

あれは体罰かい?

ロッキーシリーズだっていいよ。ミッキーとアポロは悩めるスタローンに色んな負荷を与えるよ?
東西問わずジャッキーにしろロッキーにしろ、最後は自分の閃きとガッツとラブでしょうよ。

SnakeMonkey.bmp


オリンピックを国策のビジネスとみるか、スポーツの祭典とみるかもこの際、どっちでもいい。ボクは4年に一度、国際舞台に立つ柔道日本代表を見るのが大好きだ。そのなかで「柔道家」ゾーンまで高まった選手を見つけるのが好きなのだ。

賭けても良いがそんな柔道「選手」ではなく柔道「の高みまで往った人は全て、体罰とは無縁だ。

たとえ体罰をうけた経験があったとしても、そこと縁を切っているはずだから。
そんな愚かさより「だし抜くひらめき」の方が数万倍大切であることを知り抜いているからだ。