ヒトの致死率は100%です。SARSやガンの比ではないのです by死の壁
養老孟司さんの「死の壁」(2004)を読みました。
マイ・ブックオフ105円の殿堂、決定書籍です。 もう、ベストセラー「バカの壁」も再読してみよう。105円で買い戻せるのですから。でも「死の壁」の方が本人のフィールドワークに即している分本命の著作では?、という印象を持ちました。
この「死の壁」で養老氏は鋭い指摘をしています。現代は意識至上主義になった、と。
身体は確実に日々変化しているにもかかわらず、意識が拡大しているのでそのことを蔑ろにしているのが現代だ、という主旨です。
ヒトは不変の「情報」というものを作りあげた。それらはまさに意識の産物であり身体という「システム」とは別個の代物だ、と言っています。
そういう風に見渡すと、ゲームというメディアがもっとも現代的なツールの一つです。
ゲームに身体性はありません。あるのは意識上での情報です。 もっと言えば、一番、意識に即したジャンルがゲームです。(アニメが2番手に着くかなとも思う)
いや、Wiiで私はカラダを動かしてる!、と異論はあるでしょうが、それとて作り手がその「意識上」を大前提としている以上代替案なのだと思っています。
昨今ゲームに熱中する人々をおたくだとか称するのはそう言った身体性への危機感が、世論のジェルとして根強く揺れ戻したからなのでしょう。 ボクらの世代の多くも一時期どっぷりゲームにはまるわけですが、なんやかんやと身体性に戻っていきます。
ミヒャエル・エンデの「モモ」は時間泥棒の話です。
ゲームにしろ、小説にしろ、映画にしろ、絵画にしろ「意識」の創出表現です。
どれだけ意識を突けるか、どれだけ頭脳にダイブするか。
その格闘でそれらの歴史はいっぱいです。
ボクは映像製作を生業としている以上、このことを考えずに通ることはできません。
不変(であると考えがち)の意識と、日々変化する身体。
情報とシステム。
ここには考えるだけの意味があります。べつに肩書きなど関係なく現代人として、とも言えます。 こうして「ブログ」サービスに文字を並べているのも意識の産物です。
ほとんど時間泥棒かもしれません。Facebookやスマホもどうだろう。ネットサーフィンもテレビも余暇を楽しむ(レジャーやスポーツを除いた)全般が意識的なツールです。ゲームっておたくだよね?と批判できない何かが根底にあります。
養老孟司さんは著書の中で「意識」を批判するでなく、淡々と事実を書いています。
ヒトはロケットを作ったとジマンするが、ハエや蚊がどう成り立っているのかを解明すらできていないと言うのみです。 唯一、脳死にたいしての議論で批判の立場で書いています。加害者の意識、延命装置を外す医者の立場を欠いた議論が進んでいる、と言っています。
この「エリート」の章がとても面白いのだ。 エリートとは、たんに高給取りなのではなく、ヒトを殺すかも知れず、その責任をとるために社会的地位が高いのだ、と言っています。で、そのエリート教育が分断されてしまった、と養老氏は嘆きます。
深沢七郎氏の小説のたとえがこの本の中に出てくるのですが、これが背筋が凍るほどのインパクトがあり、なぜそれを怖がっているのかを今のボクはぼーっと考えています。
考えてしまっています。