木曜日、上野の東京都美術館へ行ってきました。「エル・グレコ」展
さっそく個展外の作品だが(笑)。
このデカダンな雰囲気。10代当時この絵を見てファンになる。
ボクはエル・グレコが大好きだ。もー好き。
いつだったか十代のころ、上の肖像画を見てファンになった。そのあとスペインに旅したときもプラド美術館のみならずトレドの町に出向き、エルグレコに触れたほどだ。今回一大回顧展ということで、東京都美術館なんて混むから本当に嫌だけど、出向いた!
エル・グレコ自画像 どうですか、このタッチ!
もー! エル・グレコでいっぱい! グレコ祭!! それは至福の時間だった。
客の多さなんて気にならない。「あー色がねぇーそーよねー」というおばちゃま連合の囁きも気にならない。キュレーターの構成は見事で、エルグレコの足跡と展望を余すところなく伝えていた。
グレコの作品は大きく、宗教画と肖像画に分かれる。
肖像画は1Fフロアのみの構成だった。
しかし、この回顧展をもってしても、ボクは肖像画のグレコが好きだ。
作家の眼力に他ならないのだが、肖像画の主人公たちがいちいち強烈に「キャラ立ち」しているからだ。それはおそらく、描かれた本人たち以上に。
グレコタッチで描かれたその人々は時代を超えて魅力的だ。 逆に、肖像画にこれほどセンスを注入できるからこそ、宗教画に息吹を与えられるのだ、と言える。
しなやかな指。目と鼻に差される光。そして衣服の質感。
それらはフェティッシュなまでに特徴的だ。
聖パウロ(左)に聖ラウレンティス(右)。彼にかかると宗教上の人物も魅力が倍増する。
服のテキスチャーは瞠目に値するし、背景のイマジネーション具合はキテる。
よく10頭身のねじれた構図がグレコのなんちゃらとか言うけれど、そんな理屈は画の前では意味が無い。個展最後の展示は、そして最後に相応しい作品が、これだった。
縦5メートルくらいある(と思うくらいの)この大作は、なぜ10頭身なのかを雄弁に物語る。
どこまでも続く上昇感。「仰ぎ見る」極地であり、これらはすべて計算されている。
ほとんど魚眼レンズな荘厳さだ。
パンフレットにもあるが、昨今では神秘主義者としてのグレコという考えは古い。エル・グレコは非常にモダンで機知に富んだ哲学者であったようだ。展覧会には彼の言動も記されている。
馬に乗っている時には、彼は我々の視点よりも
高い位置にいる。
その時はどうしても、人物の比例を変更することが
必要である。皮相な解決法を避けなければならない
by El Greco
この「無原罪のお宿り」は1607年—1613年。だからもう彼が65才を超えた最終期の作品だし、完全に自分のタッチを確信して久しい頃の作品である。
そういう意味で彼は35歳頃からの10年の格闘が実に興味深い。なぜならその時期が、エル・グレコがエル・グレコになる分岐点だから。初期の20代の頃のイコン画なんて違いすぎてビビるし、こういった足跡を辿れるのも回顧展ならではの楽しみだ。
そして確実に言えそうなのが、最初期の「アーティスト」だということ。無個性な宗教画(とくにイコン画)の歴史のなかで、16世紀末期から17世紀初頭にその画に「名前」を冠した、冠すことを許された人物。それだけ才能的であり、アジがあり、言い換えると「意識」があり、多くの批判と少ない熱狂的ファンに支えられた。
意外だったのが生前はパトロンに支えられ、けっこうアッパーな生活だったらしいということ。画のタッチはもちろん全く違うが、作家のリアリティとして今回なんとなくかぶったのが、マーク・ロスコだ。 彼もロスコになるまでが遅かった。
ロスコとの違いは、死後忘却されなかったこと。19世紀中期までの250年はすっかり美術史から姿を消すのだった。再評価はここ100年ちょっとのこと。
言うまでもないと思うけど、青春時代のピカソもゴッホもゼッタイ影響を受けているはずなのだった。
ピカソ画のカサヘマス像(左)。 そしてエル・グレコのトレド風景(右)。
背景画は今回展示がなかったが、この「トレド風景」なんて、精神がゴッホじゃない?
ふざけてたのが、みやげコーナーね。 宗教画モチーフばかりで肖像画は絵はがきのみ。
ふざけてる。イカしたTシャツくらい作ってほしい。 あれば即買いだったのに、と美術館をあとにした。
そんな木曜の昼下がりにはもう春がはじまっていた。