わが心のBlog

by Hiroki Utsunomiya

グッとくる「オズの魔法使」

昨日、17日。
Bunkamuraハリウッドフェスティバルオーケストラの東京公演を観に行きました。


そのコンサートの最後のパートは、往年の名作映画が楽団のバックに流れます。
その映像を編集したのが年末年始でした。初日大阪オリックス劇場のあと、ふたたび観に行く機会に恵まれたのが昨日だったというわけです。


素直な鑑賞ベースに最後ドキドキが待っている


というのは、本当に心臓にわるい。笑
この公演自体がとても素敵なコンサートであることは充分すぎるほど堪能できますが、自分の収めたパートがどうしても気になってしまうわけです。

それが最後にドカンとやってくる。

はたしてライブという生き物と、映像はちゃんとリンクするだろうか?

とっくに手の施しようはなく当日ボクができることなんて「祈る」ことくらいにもかかわらず、人知れずドーパミンはき出しながら、ご祈祷ですよ。
まあそんな心臓への負荷とは一切関わらず、観客のみなさんが充足されていたら、なによりです。


オズの魔法使('39)」
シャレード('63)」
風と共に去りぬ('39)」


を今回編集しました。
一曲のなかでそれら名作がもつ「エッセンス」と「物語」「エモーション」を追えるように。

それも今回の指揮・グルーブ感のなかを流麗に、時にはスリリングに展開する。そんなことを気にかけて編集していたのですが、一つ、気付いたことがありました。
オズの魔法使」を編集しながら感じたことです。



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オズの魔法使」。
そうか、これはドロシーという
女の子の通過儀礼の物語なんだな

 
 
 
ということです。
邪推も多分に含みますが、これは「女の子のカミングエイジもの」と捉えてイイのではないか。

まずこの物語に男の子が主人公だったら、なんて想像さえできません。
女の子の物語なのです。女の子が「女性」「おんな」になる前の、極めて短期間にしかありえない芳醇な「儀式」ではなかろうか。
 
ドロシーは女性になるので、いつかは夢の国を離れなくてはなりません(ずっと居たくとも)。

ドロシーの牢獄に置かれた赤い砂時計はそんなタイムリミットを如実に現し、その意味で、魔女を倒し手に入れるほうきはその「証」ではあれ、決してクライマックスではないのです。
 
 
別れ」こそがこの物語の肝(キモ)なのです。
かかしやブリキ、ライオン。
彼らとの別れが最大項なのです。
 
 
だからこそ観客は、その旅の終わりにグッとくるのです。ボクもグッときながら編集しましたよ。笑
しかしボクは男なのでむしろ、かかしやブリキ、ライオンがとかく泣けて泣けてしかたないのです。

OK。ちょっとオシゴト離れて言いますけれど、
ドロシーよ、と。




キミは女になるんだね
それは素敵で豊かなことだよ
でもね、ぼくらはずっと
かかしでブリキなんだ




むろん彼ら三人はけっしてそうとは告げず、ドロシーとの別れを素直に惜しむのです。
彼らはこうも知っています、この冒険に出られたのはドロシーのおかげなのだ、と。


愉・し・かった、と。


誰もが通りすぎるだけのボクたちに語りかけてくれたことが、どれだけ嬉しかったことか。

だからこそ、かかし・ブリキ・ライオン彼ら三人の方が、ドロシーの何倍も半端なく悲しむのです。
それはその意味を彼ら自身が、知り抜いているかのような別れなのです。

とにかくここに、ボクはグッときてしまう。
 
 
 
 
冒険譚のうらに、そんなとてもとても繊細でこわれやすいモノをつつむ、1939年の名作。
女の子をもつパパは、子供と一緒に見てくださいね、「オズの魔法使」。