カサヴェテス作品の引力にまた、包まれた。
チャイニーズブッキーを殺した男(1976)
カザヴェテスの愛妻ジーナ・ローランズへのラブレター(=映画)は何通か観ていた。が、このベン・ギャザラへの贈り物は初めてだった。
・・で、驚いた。
すごい映画だ。というか、どっぷりとベン・ギャザラを味わう映画だった。ちょっと強い衝撃を受け熱にうなされてしまい、短縮版(107分)も取り寄せた。
オリジナル版(134分)は冗長で、それが麻薬の様な魅力なのだが、さすがに中盤の舞台シーンは長い。だから短縮版を確認したかったわけだ。で、わかったことは——
カサヴェテスはJAZZだ
ということだった。
ということだった。
短縮版は可能な限り「商品」を目指していて、それとオリジナル版との《差異》から、カサヴェテスの真髄がわかった。107分の短縮版では《コズモ=ギャザラ》とクレージーホースのエッセンスは乱暴にも半減している。それは即興でノイズも含むフリージャズがはげしく加工された感じに似ている。なにより、
「たまらん」がないこと。
これが一番でかい。
たまらん
「たまらん」がないこと。
これが一番でかい。
たまらん
「たまらん」(やりたい)。
このカットはコズモのキャラクターを雄弁に物語っている。が、オリジナル版のみだ! この科白は賭博でギャング相手にしこたま借金を抱えた後、美人ダンサーを送り届ける際にコズモが言う。
あ、あんさん、
今、借金作ったばっかでしょ?
しかしそんな観客の声はコズモには一銭の値打ちもない。
帰りの車内でも「借金はふみたおしてやる!」なんて軽くまくしたてる。とにかくそのコズモの突発さと欲望とスマイルは、胸にクル。
このカットはコズモのキャラクターを雄弁に物語っている。が、オリジナル版のみだ! この科白は賭博でギャング相手にしこたま借金を抱えた後、美人ダンサーを送り届ける際にコズモが言う。
あ、あんさん、
今、借金作ったばっかでしょ?
しかしそんな観客の声はコズモには一銭の値打ちもない。
帰りの車内でも「借金はふみたおしてやる!」なんて軽くまくしたてる。とにかくそのコズモの突発さと欲望とスマイルは、胸にクル。
ではコズモの念じ続ける欲望とはなにか?
それは、自分のストリップ小屋「クレイジーホース」で、己の芸術と人生を体現することだ。
——そんなの、
グッとこなきゃおかしいだろ
ラストの楽屋と、前説に立つコズモの「かっこよさ」は、見てもらった方が本当にいい。
「クレイジーホース」と仲間達とは、監督カサヴェテスにとっての「映画」そのものだ。ストリップ劇場自体が映画を支える仲間たち、その強烈なメタファーであることを観客は痛感するだろう。
それは、自分のストリップ小屋「クレイジーホース」で、己の芸術と人生を体現することだ。
——そんなの、
グッとこなきゃおかしいだろ
ラストの楽屋と、前説に立つコズモの「かっこよさ」は、見てもらった方が本当にいい。
「クレイジーホース」と仲間達とは、監督カサヴェテスにとっての「映画」そのものだ。ストリップ劇場自体が映画を支える仲間たち、その強烈なメタファーであることを観客は痛感するだろう。
カサヴェテス=コズモにとって、チャイニーズブッキーが何者か?ーーーーなんて一切関心事ではない。
ヤツらは自分のしたいことを邪魔するだけの存在にすぎない。で、そこに向けられる微笑みもヤバい。
フィオ 「いい店だ。女も上物だな」
コズモ 「・・・・・・まあな」
ヤツらは自分のしたいことを邪魔するだけの存在にすぎない。で、そこに向けられる微笑みもヤバい。
フィオ 「いい店だ。女も上物だな」
コズモ 「・・・・・・まあな」
カサヴェテスがJAZZであること。それは、出演者への絶対的な信頼でもわかる。
彼はプレイヤーの演奏を嗅ぎ取る第1のオーディエンスでいたい。カメラはその効果的な目撃者でしかない。この映画は「フィルムノワールの傑作」と評されることもあるが、冗談だろ?と思う。
ポートレイトの映画であり、JAZZだよ。
ラヴ・ストリームス(1984)
これもDVDを取り寄せて見た。(なんでも2013年にようやく再発とのこと)
これも、やばい。
というか、はげしく、やばかった。カサヴェテスの作品群で最高到達地点はどれだろう? と、この映画を見終った後想った。ラヴ・ストリームスは輪をかけて超絶大人の映画だった。
今までの作品にくらべこの「ラヴ・ストリームス」はピントが合っている。撮影の。
というか、はげしく、やばかった。カサヴェテスの作品群で最高到達地点はどれだろう? と、この映画を見終った後想った。ラヴ・ストリームスは輪をかけて超絶大人の映画だった。
今までの作品にくらべこの「ラヴ・ストリームス」はピントが合っている。撮影の。
機械的なピントは合ってるが、ちょっと「ピンぼけ」じゃないか? と想いながらオレは見ていた。
コミカルで通りよく、撮影技術の洗練さも逆に不安で、
「先生、それはちょっとちゃうだろ」
「カサヴェテスらしくもない」
なんて思った。が、この映画のリズムと関係に馴れだすと目が離せなくなっていった。
コミカルで通りよく、撮影技術の洗練さも逆に不安で、
「先生、それはちょっとちゃうだろ」
「カサヴェテスらしくもない」
なんて思った。が、この映画のリズムと関係に馴れだすと目が離せなくなっていった。
今回の舞台は、カサヴェテス演じる作家の「屋敷」だ。ホーム(家族)とはなにか?
自分にとってのホームとは?
移ろいゆく、登場人物それぞれのホーム。
「屋敷」はそのなかにあって、カサヴェテスの変わらないホームグラウンドだ。
そんな屋敷に大量の動物(!)を投下して男と去って行くジーナ・ローランズ。それも嵐の中を。
こんなラストが、強烈に焼きつく。
また「バランス」という単語がこの映画には何度も出てくる。出てはくるが、バランスを保とうにも保てない男女がまさにカサヴェテスとジーナローランズだった。
バランスとは、愛のバランス。
そして愛以外への、バランスだ。
学生の時、とあるヒトから頂いた写真集「カサヴェテス・ストリームス」を久方ぶりに手に取る。あれから十数年後。(恥ずかしながら)初めて触れた、ふたつの映画。「チャイニーズブッキーを殺した男」と「ラヴ・ストリームス」。
オレにくれたあのヒトはいまでもカサヴェテスの映画が好きだろうか。オレは巻末にある「ラヴ・ストリームス」の批評を読んだ。そこには同じように感じている論評を再発見した。同意する。
彼は「映画はフィルムである」などとは口が裂けても言わないはずで、彼の映画の強度は、画面を作り込むことによって得られたものではなく、ことごとく生そのものの強度に支えられたものなのだ。つまり人生の質の問題だ。それはきわめてフィジカルであると同時に、きわめてスピリチュアルでもあり、それはまるでジャズだ。 桜井通開