これは経験則による持論だが、
いい場所には必ず菩薩が居る。
むろんひとは一人一人、御仏だろう(仏教的に言えば)。だから優劣をつけるべくもなかろうが、
それでも
良い場所には必ず菩薩が居るんだっての。
そういう空間では良い時間が送れるものです。
逆に、そんな、「菩薩」を探す。
こんな愉しみさえ冒険的な日には付き物だ。
一日を終えてみて、
「ああ、あの人が今日の菩薩だったんだな」
と思う時は、実はしばしばあるものだ。
菩薩。というからには女性だ。(菩薩は諸説あり釈迦の修行時代でむしろ「男体」なのだが、俗なイメージで進める!)
で、菩薩的な立場だからって菩薩な訳ではない。
たとえば、
女将さんやスナックのママ
だからといって菩薩とはかぎらん。むしろ怪しい。
「わたし張り切ってます」などもうアウトだ。
いわんや美形だから菩薩だなど全くもって言ってない。
そうではない。
むしろ女中さんやスナックのバイトの子が宿していたりするし、美形より美しい、菩薩は。
当然、優しければいいわけでもない。
菩薩魂(ぼさつだましい。なんだそれ!)を宿す素養というものがあり、菩薩を宿す人は必ず
菩薩顔
だ。これも保証する。
なんともいえず菩薩顔なんだ。
オレは映像業に従事していて、一期一会の連続だ。
撮影のヒットアンドアウェイの刹那、菩薩に救われる瞬間というのを何度も経験している。
そうでなくても、なにかの折りで不意に遭遇する。
彼女たちの救い方は様々だ。
だけど確実に救われる。
もしかしたら、こうもいえるかもしれない。
純粋になにかに集中している時こそ、
菩薩が寄ってきてくれるのだ、と。
オレの思い込み、かもしれない。
オレは見たいように見ているだけで、菩薩だと決めつけている、のかもしれない。そうであってもだ、
菩薩は菩薩顔をしているし菩薩だ
と感じる。
彼女たちにも感情があり、劣情があり、その短時間でオレはその側面の一瞬しか見ていない。
超当たり前のコトだが(笑)、それでもなお、彼女たちにその「素養」を視る。菩薩の素養だ。
あなたは菩薩に会ったこと、ありますか?
彼女たちは冒険的な旅先に居る。
オレは一人でも多くの菩薩にであいたい。
ハッとするから。そして、そんな良いひとときを思い出すことも好きだから。