わが心のBlog

by Hiroki Utsunomiya

自分くんとの日々

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これは3年前。
2015年の今日、10月10日の記事。OFFってたものだ。
読み直すとたいへん真っ当なので、ここに再掲する。
一つのプロジェクトが終わった時の、センセーションをこの記事は述べている。

あ。そのあと「後記」も今としてすこし追記しました。


(以下、2015年10月10日の記事)
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なんかやだなぁ・・・
歳をとってるつもりもないんだけどなぁ・・
それに、なんかずーっと自分だって「借りてきた衣装」着てるんだけどさぁ・・
それでも・・ 貴様に言うことはあるよ



と思う時がある。
いわゆる長い「仕事」がちょうどおわった時。
それもなんともいえん助手さんが付いた時に。



「今回、本当にすみませんでした」



たいてい、彼らは最後に首(こうべ)をたれる。
そしてなにか、オレの考えを引き出そうとする。


しかしこの行為はずるいんだよ、基本的に。
それすら自覚できないヒトがなかにはいる。
「仕事」の終わりで彼にだめ出しをした所で、何の得があるんだろう? それもフリーであるオレに。
それに反省すれば、ことは進むのだろうか?
「許さないよ?」という選択肢があることは想定しているんだろうか。ただその日の寝入りをよくしたいだけの輩も、なかにはいるだろう。オレは「君との仲良しごっこから抜けれて、正直清々してるところだよ」と言ったアト、以下の要点を言う。



結局なぁ。お前は、自分主語なんだよ




「仕事」って大抵、向かう先が法人企業という集団であり、観念複合体と戦う/コラボするわけだ。
むろん血の通った人間の営みだ。その窓口に素敵な方々は多いが、観念との格闘に変わりは無い。
それだけでも充分《知性・ウデ・集中力》が要るのに、チームに「自分くん」を抱えてみ給えよ?
という単純な話。 邪魔でしょうがない。


こんな単純な話が、イマジンできない


いや。わからないでもない。
むしろ彼ら自身も「自分くん」を忌み嫌ってる
問題はその時、実際に自分が「自分くん」になっていることに気付けていないときだ。
ここが根深い。この「気付けていない」は、【客体化】(マッピング)の話だからだ。
自分のCPUがダンプ(一時停止)しそうになるときは、常に点検が必要だ。


「おちつけ。 いまは何チャンネルだ?」
「いま自分は【自分くん】になってはいまいか?」


誰しもが、キャパ越えする可能性と瞬間を有している。というか、特別な現象でも何でもない。
しかしそこで発生する個人の「差」はなにか?


どれだけ
ワイド=オープンになれるか?である。
 
 
「やだなぁ」と思うのは、見えるようになってしまったからだ。きっと。(やだなぁ)
ぶっちゃけ、自分がそうだからだろ? って自分でもよくわかるわけ。内訳は避ける。
が、くだらん縄張り意識や、意地・見栄・嫉妬ともちょっとちがう。というか、全然違う。
 
むしろそんな、自らの負の感情を勘定しながらも、外の世界とどう対話できるかがキモなんだわ。
負の感情を外に置けば点検ではなく、それは完全に偽善行為だ。健康にもよくない。
さりとて自分本意のノーチェック野郎が相手だと、付きあう側はなぜか観客にさせられもする。自分くん劇場の客。それがダサすぎる&失礼なことに当人はなにも気づいてはいない。
冗談じゃないが、そうなんだ。この現象をチェック(客体化)できない奴のなんと多いことか!!
 
しかし!
この話が深いのは自分を【忘れてもいけない】からだ。
美学として《自分を貫くモノ》。それがなければ魅力はない。まったくだめだ。
が!  自分くんになってもいけない。



この点がとにかく深遠すぎるのだわ。



OK。「深遠」で重要と感じるのは、オレの価値観にすぎない
しかしこうしてブログに書くことさえ一つの価値観の「表現」だ。「表現」とはどの立場でも絶対だ。それは職場であれ私生活であれ。発言一つが表現であり、料理ひとつが表現だろう。不可避だよ。


もっと言うと表現者が一番つよい
「掃除」という表現を行った者は、「あー掃除しなきゃな」という者よりはるかに強いのだ。表現というものはそもそもが、まずは尊いもの。(ココもわかってない奴はまじで多すぎる!!)
出たモノに「修正」「反応」と言う名のアト出しじゃんけんは誰だって言える。園児だって言える。
で、それがどうした?って《コトの順位性》《だけ》を言っている。
表現という尊いおこないをした。それは反応者のはるか先を進んでいるということ。
だが同時にそんなおこないもスペックがあれば勝つだろうし、だめならそれはだめだ。誤審でさえ負けは負けだろうね。そういうことだ。コトの順序のハナシ。


でね、それもどうした? なんだ。


資本主義的「勝ち負け」や、私生活と金儲けなどと分けられようもないのが人生だろうよ。
それは結局、個性がフルタイムを貫くからだ。
ゆえに自分くんであれオレであれ、その場において当然平等である。しかしここであえて説く。
自分くんに足らないものは何か?






言えば、自分くんにたらない視点は、
歴史だ。






たいてい彼らは、物事や人物の歴史を軽視する
で、歴史を軽視するから、ヒトの話を本当のところで聞けない。「聴く」という行為ができない
一皮剥けば「オレ語り」がしたい、「負けない奴」こそが自分くんなのである。
念のため、ここで言う「歴史」って教科書的な話ではなく「バックボーン」のことに決まっている。エレガントな人は(これもべつに仕事の話ではない!)、そこまでの背景に精通しているものだろう。
 
 
なぜ人間は面白いのか?


って言えば

バックボーン】X【性格・個性

その掛け合わせがあるからだろうに。
その豊かさが面白い。


だが。
今日は、その成分分布図に「自分くん」が多すぎね? ってはなしをしたかった。



最後に冒頭に戻るよ・・・
以下、延々ループ。





なんかやだなぁ・・・ 歳をとってるつもりもないんだけどなぁ・・・
それに、なんかずーっと自分だって「借りてきた衣装」着てるんだけどさぁ・・・






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後記。2018年10月。

自録り」(自分劇場)が常識・OKとなったことを想うと、自分くん的行為は拡大の一途にある。
思想のトレンドも「ネオ相対主義」(ザ・人それぞれ。アメリカファーストならぬ、マイファースト)でしばらく進むだろうし、スモールガバナンスというフレーズに代表されるように(本当は「小さな政府」になってゆく傾向なんてそこまで見当たらないんだけど)、大衆の側はあらゆる面でどんどんセグメント・細分化している。

それは時代に呼応しているとも言える。
「幸せ」を考えた場合、旧態依然の「大きな」ものは今の幸せにフィットしていない所があるだろう。
それを茶化したり否定する気はない。

が、これらは大抵「テクノロジー」だよ。小さな「幸せ」は意外とテクノロジー由来だったりする。
確実に揺り戻しはあると思うんだわ。