わが心のBlog

by Hiroki Utsunomiya

イニシェリン島の精霊

映画の日に鑑賞。
なるほどなあ。これは映画館の映画だ。
テレビや小さなモニターで見た日には退屈で頓死するだろうから。映画館が旬の映画。

以下、ちょっとネタバレ含む感想です。
これから観る方は観た後にどうぞ______



実際開巻25分くらい退屈で死にそうになるんだが、その「退屈感」こそがこの映画の主題だった。
島諸や辺境の退屈感が重要なモチーフだからだ。


「ガキみてえだ」


と知恵遅れのドミニクに評される二人の中年の痴話喧嘩は、まさにガキみたいな話でこれは「絶交」についての映画だった。

誰もが中学生位の時、
こんな経験あるんじゃん?

というような、ある意味「カミングエイジもの」でもある。笑
それに「島」と「中学」は似て閉塞的。かつ「出たくても出れない」自家中毒感もやはり似ている。
もっとも時代や地域を越えて普遍的な問題だが。


で、退屈と指摘され友人コルムに絶交されるコリンファレルなんだが、これが本当につまらない男で。よくよく見ると妹と知恵遅れのドミニクくらいしか接しないんだよ。だからコルムの言うことも悲しいかな確からしい。
そんな絶交に逆ギレして初めて「今日が一番面白いよ、お前」と言われるナイトバーのシーンが印象的だ。そこで優しい人間はいつまで記憶されるか、について語られるのも面白い。


コリンファレルの「優しさ」は爪弾き者であろうドミニクと食卓を囲み、動物を家族のように扱い、妹をかばうことで充分に伝わってくる(もっとも、よそものを嫉妬から追い出す小市民だが)。

一方のコルムの気持ちもよくわかる。笑

「つまらん会話より静寂を望む」など現代人の誰が否定できようか。しかし自己実現を望みつつもその手段である指を(説得と怒りのために)落とすところにコルムの過激さ、切実さがある。



もっと言えばコルムの家は海に向けられている。
それは島の外への憧憬も示す。そんなコルムの家は(コリンファレル家もそうだが)孤立して建つ。

これら優しく退屈な者と、理念を望みながらその土地で自傷し絶望する(←絶望は懺悔にでてくる)者の対比は風変わりにしてリアルだ。そして何らかの象徴でもあるようにこの映画は囁いている。


考察の類は一切触れてないが、要するに「これは読み応えのある映画だ」ということ。

もちろん見応えがあれば即ち面白いのか? と言えばそうではなく全く好みが分断する映画だが、少ない登場人物で2時間押し切る手腕は認める他がない。
「聖なる鹿殺し」のバリー・キオガン(コーガン)は性格俳優まっしぐらでこの映画でもとてもいい。

この映画は100年前に時刻を合わせている。

それは(オレには若干あざとく映ったが)意味は充分にあるだろう。「人間の営みなんてこんなもの」という一次的な意味もあるし、もっと言えば


「内戦」は百年続いている


が裏にこめた強い強いメッセージだ。
アイルランドカソリックプロテスタントの争いだ。IRAという単語もセリフから出てくるのでこの問題を掛けているのは明白。


さあ「絶交」でいいのかい?とね。
まるでU2のWith Or Without You だ。


遠くの狼煙(内戦)と近くの狼煙(コルム家の火)は対をなす。
重層的で確信犯的に「つまらなさ」を逆手にとる。近所付き合いという名の「地政学」と友情優しさ狂気。それら解き難いナニカを語る映画であり、もちろん表面上の痴話ケンカは単純にして過激だ。


最後に。
コリンファレルは前作「スリービルボード」のサムロックウェルに見えて仕方なかったね。同じ監督なので無理ないが「放火」というアクションもこの監督好きなのだろう。
この映画はコンテキスト(背景濃度)を要求するが「映画ってこれでいいんだ」と感じさせるシンプルなオリジナリティに溢れている。
日本の、レイトショーの映画館では水を打ったように静かだったが、これ、イギリス人ならゲラゲラ笑ってみてそうだ。それ位文化の違いも感じる作品。



最後の最後に蛇足。
今年のオスカーでは9部門ノミネートとのこと。
どうだろうね、観たヒト?

極私的感慨だと助演ノミニーの妹役ケリー・コンドンさんは届かないかな。もちろんステキで魅力的。だが、テンションが上に張り付きっ放しで同じ科白や所作でも他にやりようがあったと思うから。
それよりバリー・キオガンだ。
彼の告白シーンは極上。助演獲ってほしい。が、キーホイクワンが競合だもんな、それ自体に驚きだ。
作品賞などはこの「地味な豊潤さ」をどう受けとるかで、中々難しいとは感じた。以上蛇足でした。