わが心のBlog

by Hiroki Utsunomiya

日々の記 220515

GWはぶっ通しで編集作業をしていた。
そこではあまり書けることがなく、粛々と日々のすることを行っている感じだ。そうかと言って世界を見わたせばウクライナをはじめ大変な情勢であり、さあどうなってゆくんだろう、と思う。一方で、プライヴェートの何某かのことがワガゴトとして眼前とあり、先述の懸かるオシーゴトのことや日々のセンセーションもある・・あったのだが、前にも書いたと思うがそれらは機を逸し、あるいはまだまだ熟してなかったり、あるいはここで書くのがダレ得かわからんことばかりだ。そうかと言ってモノマガジンや手短なガジェットの話題に散らそうという気にもなれず、つまり今「ちょっと重い」気分のなか、でもなんかアップデートしたいなぁ、などと邪に思いキーボードにまかせこれを書いている。・・という時間ができたことが何より「すこし落ち着いた」状態なのかもしれないし、その暇は歓迎することではないか。なんたってGWはぶっ通しだったのだ。

そうだな。気分に任せて書けば「量子」の世界に興味は尽きない。この書記もまさにオレの中のオレの「ゆらぎ」の不確実性をこうして電子信号の情報として「確定」させてしまっているわけだが、もちろん書く本人はまったく「これじゃない」感がつきまといまた「なんて文章だ」と呆れもする。が「ゆらぎ」をひっ捕まえて固定化すること、その行為、それ自体が結局万物の全てではないだろうか。とさえ思う。生活しかり、コミュニケーションしかり、クリエイティブな芸術しかり。本来は「波」のようなおおらかな可能性に充ちたモノが、観測によって「点」となる。なってしまう。しかしここにまさに洞察力が必要だから面白いではないか。つまり、その点の羅列から科学者達は「波」を看たのだから。点の配列から波を予測した。光。すなわちエネルギーとは「点であり波」なのだ。そのエネルギーとは生活でもコミュニケーションでもむろん創作物でも等しい。それは単なる「ひとつの点」かもしれない。が、そこにどんなエネルギーを見出すか、だ。そこに必要な洞察力や感受性はなにも数学や物理の遠い話などではなく、ありふれたそこかしこに必要なチカラである。やはりオレはその洞察力と感性こそ養っていきたい。なんて思いつつ、じっと手を見てひきつづき粛々と集中するシーズンなのだろう。というわけでみなさんごきげんよう。セイハロー。