前回「パート2」
ここでサウジ戦のプレビューをした。ちゃんと
(今回の予選は、シリーズ化必至だ)
という予言を含めて。
結果は0−1でサウジに日本は負けた。
で、多くが似たような想定内になったわけだが
「サッカーが好き」で
「日本代表を長年ちゃんと観てきた」
のなら、私でなくとも誰もがそれなりの高い精度で予想が出来た。そう想っている。
その上で——。
どこから何を書けばいいか、は、途方にくれる。
書くべき事が多すぎて。
なーのーで、今回トピックは絞るが「それ以外も多すぎる」と想ってくれれば幸いです。
(それでも長文となった。好きな方どうぞ。)
◎ライトユーザーの元気玉
今回アジア最終予選のアウェイ戦(ホーム戦はテレ朝と共にだが)はDAZNが高額で買い取った。
「AFCが放映権を吊り上げた」事など色々あるが、それだけテレビ局(とスポンサー)の資金力も代表サッカー人気も落ちている証左。・・なのだが、この件は重要すぎる。なぜなら
〈ハードユーザーしかいない〉
と言えるから。メリットとデメリットがある。
サブスクまでして、というのはサッカーに関心のある証拠で問題意識のある人も多い。その中で
〈磨かれる〉
〈結果だけでなくプロセスを語る有意義さ〉
というメリットもあるなか、同時に!
「元気玉が発動しない」
ということも言えるだろうと想っている。
元気玉とは「がんばれ!何があっても応援する!」という情緒面のチカラを指すが、茶化してない。
この「元気玉」をバカになどできない。なぜなら、
量子論でも証明されようとしているから。
「観察」が運動に影響を与えることは、ある。
実際その「観察」が与える影響はスポーツの世界では多大だ(実際、そう想わない?)。
なので「負けろ」と唱えて多くの観客が観たら
負ける
こともありうるのだ。
今回「ハードユーザー」のどれほどの人々が「勝ってほしくない」と想っていたか——。
そんな「観察」の行方をオレは感じてしまう。
◎勝ってほしくない、の悲喜劇
むろん「勝ってほしくない」として眺める行為は健全ではなく悲劇である、もちろん。しかし——
時にはその発動が必要だ。
実際その歴史も枚挙に暇がない。
どの代表でもそんな時期が、起こっている。
ハリルの時はすごかったし、ザックでも起こってるし、岡田、ジーコ、トルシエでも余裕であり、賢者オシムでさえ、その大衆の猛威はあった。その事実は忘却されるわけだが。しかしどのみちそれは、うまくいっていない時、だ。
・・・。(咳払い)
ちょっと考えてもみてほしい。
自分の下半身を顧みず、キレイゴトを言うことは「誰もが言える」ということを。
キレイゴトをテンプレで言っていれば学級委員にはなれるかもしれない。
そんな優等生ではいられるだろう。
だがそれは「学校」の中の話であり、インカレの、学校同士の対決の勝負ではなんの意味もない。
キレイゴトで勝てたら世話はないのだ。
OK。
お茶を濁さず、この際はっきり言うよ。オレはね、
サウジの攻撃
その精度の甘さを
呪ったよ
叱咤激励していたさ。
「甘い、くそ! なんだそのフィニッシュは!」
「シュートは枠だ!」
「もっと足元につけろ! 何してる!サウジ!」
「決めろ! ええい、甘い!!」
「サウジ! しっかりしろ!!」
まるでフィールドサイドの監督のように激高。
しかしそれはなぜだと想う?
早くこの森保JAPANに
引導を渡してくれ。
再生させたいんだよ
その切実な願いからだ。本当に切実な。
わかるかな、この愛憎半ばする感覚を。
早く、このゾンビに永遠の眠りを与えてくれ。
しかし強いと言ってもアジアなのよ、サウジ。
前半の前半こそポジショナルでコンセプトも効いていたが、テクニックは甘いし、後半は酸素も欠乏しはっきり言って「殴り合いの泥仕合」だ。そんな中
サイコロがどちらに転ぶのか
という、まさに量子論的亜空間合戦。
ヒリヒリした、双方きめの粗い攻防・・。
これが
ベルギーやフランスなら
完膚なきまでに
仕留めてくれるのに。
ここがアジアであることを呪ったよ。ほんとに。
そんなことも告白しておくよ。この予選が欧州予選なら、間違いなく森保JAPANは消えているから。
◎選手は最強、指揮官に不備
いつだって選手は最強、とは言い含めておきたい。
実はここも様々な差異、選手の弱さ・特性があるしのちに触れたいが、日本サッカー界の上澄み中の上澄みである事に疑いの余地がない(好みは別な)。その時代、その時の最強選手達なのである。
たとえばCBの吉田と富安は大崩れなどしない。
これは闘莉王と中沢の2010年版CBよりも強い!
など感慨も色々ある。が、森保監督に至っては
「森保監督に至っては」
である。これはもう、
森保監督更迭論が噴出してきました
森保監督更迭論が噴出 pt2
森保監督更迭論 pt3 シリアラウンド
と再三論陣を張り、2年が経とうとしている。
で「ハードユーザー」のみならず、彼に戦術がないことは割れている、と言って全く差し支えない。
(残念ながらどう看てもそう。)
そしてここで更に——
で示した、JFA田嶋会長を動かすには「負ける以外無いな」という捨て身論が成立するわけなんだわ。
ちなみにここで、少し歴史の時間だ——。
加茂周が更迭された1997年を紐解こう。
加茂監督への任命責任のある当時の会長・長沼健は頑なに続投を唱えたが、批判もまたすごかった。
そしてアジア最終第4戦終了後、カザフスタンと1−1のドロー戦の直後、加茂はついに更迭される。
この事件は今と、不気味にリンクする。
なお一説には、コーチ岡田武史氏を擁立した〈JFA内クーデター〉の様相でもあったと言う。
(・・というクサビを打って、話を戻す。笑)
◎コード化し続ける世界の戦術
では誰だと監督に相応しいか。
という話になる。これは「誰」とは言えないが、引き算ならできる。つまり絶対条件は出せる。
戦術を落とし込める監督
ということだ。モチベータータイプで武器のない森保氏の限界は如実であり、そうでなくとも今、世界の戦術は進化の一途だからだ。
5レーン理論
偽サイドバックに代表されるロール戦術
ダウンスリー(2CBの脇にピボが付くこと)
引いてはロール3バック
これくらいは「たしなみ・常識」として落とし込める監督が絶対条件だ。そこに是非はない。
ルールとデザインを所有し落とし込める監督だ。
またはモチベータータイプでもいいが、これらの有能な戦術コーチの帯同が必須だ。
現代サッカーは高度化「コード化」が著しい。
これらをわきまえずにいることは万死に近い。
し、崩すとっかかりもつかめない。
それはアジアでも、と今回わかったろう?
「いっつも個人技頼り」
そんなジーコ・ハリル・森保ジャパンと化す。指揮官がマナーを持っていないなら、誰でも同じだ。
ただひたすら「古風」となる。研究されるだけ。
世界の潮流は進化「し続け」ているのだから。
◎選手のジアタマが要求される
結局オシムが素晴らしかったとしか言えないが
現代サッカーはより選手に
ジアタマを要求する
ジアタマ=サッカーIQ。戦術吸収力・空間認知能力・等々
そんなサッカーが中心のど真ん中にある。
それはグアルディオラやクロップなどスーパー監督を引き合いに出さずとも、ポジショナルサッカー全盛なのだ。ゆえに選手選考も〈ジアタマと武器〉で測ることになってゆくのが妥当だ。
今回「パート2」のスタメン予想で
柴崎 ではなく 守田
にしたのも実はそこ。守田のジアタマを買っている。彼はダウンスリーを平然とやれる選手だから。
(結局「遠藤のパートナーは誰だ」問題で一番相性のいいのが守田だとも想っている)
そして柴崎は今回見事に「戦犯」になったが、象徴的な事件としてオレは看ている。
彼・柴崎も(厳密には)たまに降りてきた。
本当にごくたまに、ダウンスリーを行っていた。そういう時、ビルドアップもまた自然だった。
が、その偶発性も否定できないとは言い切れる。
チーム戦術に全く落ちてないし、そもそも「常識」まで彼の中で落とし込まれてもいない。それがあの「ミス」一つに顕れている。つまり巡り巡って、
誰に指導を受けて育ったか
そんな要素さえ哀しいが、本当に重要な事なんだ。
戦術をどこで仕込まれたか、その年輪も。
しかしそれを今言ってもはじまらない。
柴崎という才能をどう使うのか。
この「問い」は他の選手でも同じことだ——
みんな一長一短
完璧な選手などいない
森保のように「馬なり」「個人任せ」「根性論」を続ける限り、戦犯もまた多くなるだけだろう。
そこで選手の自信をむやみに削ぐべきでもない。
が、選手達自身も相当問われることになる。
「ジアタマ」が要求され、戦術理解・ポジショニング・基礎技術こそが審議されるだろう。その上で最終的な「個人技/スーパー」が要求される。
これが(哀しくも)現代サッカーなのである。
相手の敵も同数そこに居る。なおのことなんだよ。
だからこそ、コード進行に長けた監督が必要だ。
教えの享受も、セオリーも必要だ。「自由」という名の果実を疑え。必要なのはスペースと時間だ。
これらの話はもう、森保氏は蚊帳の外でしかない。
哀しいが進化し続けるのがサッカーなのだから。
しかし長期的に、日本サッカーに携わる選手達もその高みを目指して成長して欲しいと切に想う。
(なお奥の奥の世界最新戦術など、オレも蚊帳の外ですよ。笑。)
というわけで。
オーストラリア戦、さあどう観ようかな!
なお私のステートメントはなんら変わらない。
4年前の下記ブログの通り! まさにちょうどいいのでシェアしておきます。
プレーオフで漢になりやがれ。