前回、序章からどうぞ読んで下さい。
自意識と演技《序章》 - わが心のBlog
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生きていると経験則もだいぶ貯まるモノです。
これはもう本当に。
私から視て、俳優にみられる厄介なシグナル。
要注意な俳優の現象はこの二つだろう、と想う。
1)顔合わせや初読みが一番いい人
2)本番になると急に自意識に走る奴
「奴」なんて言ってますが特定の人を指してなく、1も2も総称です。それくらい「要注意」な現象であり、とある問題が凝縮されています。
とくに「2. 本番になると豹変する」奴は正直殺意を感じるくらいイヤですが、これら二つの現象は要注意にして、実は原因は一緒です。その原因とは
自意識過剰。
要は《自惚れ・ナルシシズム・エゴ》ですよ。
これらが原因。
俳優におけるもっとも厄介なシグナルであり、創作活動に決して良くない影響をもたらします。
この自意識の問題を考えるにあたり、あなたは以下A・Bでは、どちらに比重をおく俳優だろうか。
A 物語を中心に据えているのか?
あるいは、
B 自分のパフォーマンスが中心か?
自問してほしい。
結局重要な問いはここにしかありません。
で、Bの人は大変危険かもしれないということです。なぜなら「B.自分のアクト優先」の姿勢に自意識の諸問題が潜んでいるからです。
もっとも。
自分の行動なくして、演技なんてありえない。
——当然ですよね。
そもそもナルシシズムやエゴにしても、誰もが持ちうるものです。飽くまでこのABの比率は自身の「姿勢」それらバランスの話です。
自意識過剰・自惚れが特別な精神活動ではないだけに、自分で監視することが肝要になるよ、という話をこれからします。
まあ。慌てず読みば私の真意はわかるはずです。
しかし序章で書いたとおり、どう書いても過激です。途中踏み外すこともありますが、よろしくね。
では、始めていきましょう。
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1)顔合わせ初読みが一番いい人
初読みが一番のピークで、そのあと芝居が付けば付くほど萎んでしまう「初読みだけ絶好調」な人。
これも残念ながら、自分のパフォーマンスやエゴ、自意識を中心に据えている証拠と言えます。
それはなぜか?、という話。
そもそも初読みって「瞬発力」や「初めてのフレッシュさ」でどうやっても「いいもの」です。
初めて一同に会し、形作られる感動があるからです。が、演出はそんな現象を知っているので役者の「初読み」がよくても喜びこそするが、ちっとも驚かない。それって自然なことだからです。
むしろ「この後こそが長い闘い」なんですが、当の本人はまだ気づいてなかったりするものです。
そこからの上積みがない。
もしくは上積みが少ない場合。——これが本当に根深い問題となる。
同じように何度も「初読み」のコピーになり、その演技者からテンションも何も落ちてゆく。そして演出はこう想うに至る「しぼんだなぁこの役者・・」
思い当たる人もいるのではないでしょうか。
でも、その上積みがないのは、
「ホンが読めていないから」
です。
「読めてるよ!」と主張するでしょう。でもきっと君の自意識が邪魔しているはずだから。
——この点を語っていきます。
極端な例を使ってね。
しかしここからは、まさに長い「助言」です。
思い当たる節のない人も、演技初心者〜中級者までの方なら(つまりほとんど多くの俳優は)、以降読み下すことを奨めるよ。
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「顔合わせや初読みが一番いい」君へ。
まず(演出やホンをけなす前に。)自身の脚本への読み込み・取り組む姿勢を考えたほうがいい。
脚本をちゃんと
分析したんだろうか?
君は、君の役を、
誤読していないだろうか?
ナルシスな、自意識過剰な、
自分のエゴを中心に据える役者は
まさか自分の役が
大したことない なんてありえない
と決めてかかります。
今、重要にして「意地悪」を言っているからね?
もう一度大切な意地悪なのでくりかえしますよ。
まさか自分の役が
大したことない なんてありえない
大なり小なりということです。
一つの思考実験として聴いてください。
彼・彼女はそのホンを受けとったその時点から、その自分だけの「前提」でホンを読み進めます。
で、脚本を見誤り、誤読する。
流れやストーリーを見誤り、役を誤読する。
なぜならその者は、それが本当に実際「たいしたことなく」書かれていても「読めない」からだ。
読めない人は本当に読めないんですよ。目に色眼鏡をかけているからです。
自意識なく、平たく読むことができない。
原文にある「たいしたことない」を受け容れてない状態が、気づかない限り永劫につづく。
ゆえにホンからの再発見に乏しく
「上積み」がおこらない。
初読みが言わばピークとなってしまう
のです。・・しかしこう書くと
「そのたいしたことない役に血肉を与えるんだよ、オレラ俳優は!(演出がだめなんだろ!)」
と演出を批判したくなるかもしれない。
でもいったん落ち着こう。
その「前」の話をしているんだから。
その「たいしたことのなさ」にあなた本当に
気づいていた のか?
ということなんですよ。自分の胸に聴いてくれ。
当然だよ。
下の句の「血肉を与える」という行為は。当然であり、私も強くそう願う。今問うのはそうではなく、
上の句、
「たいしたことない」という【物語の構造】にどれだけ気づけるだろうか? その役を演じる、
あなた自身が、あなた自身の中で!
本当に? (Really?)
という問い。これこそが大事だからです。
本当に本当に、君はホンが読めてる?ってこと。
君はどこかそのホンを、
「都合良く」ブロックし、
決めつけ、今そこにある文字を
誤読していませんか。
(※ だーかーら!気づいてるし分析も怠らんしそれでも足りないからこれからも謙虚に気づいていくよ!俳優の当然の仕事だろ!という方これ以降読まなくて大丈夫です。このあと長いのでね。笑。現場で会おう)
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物語には「共通了解」を必要とします。
つまり物語の流れ、「本筋」のことです。
物語がどうなって、どうなるのか。
役の人物がどうなってどうなるのか。
そこを見誤って誤解されると、まじか、と想う、普通に。そこに自意識の出る幕はないからです。
でもこの誤解・・
もっと言ってこの「物語と自意識との混同」に無自覚な俳優(志望)はかなり多い。
ーーこれも極端だが、
死ぬ役は死ぬ。
バカはバカとして書かれています。
わかりやすい脚本ばかりではない。それが直接的でなくとも、ちゃんと示されているものです。
しかし彼・彼女は「自分はバカじゃないし死なない」という先入観を前提にもっています。
そして誤読し、初読み現場にあらわれるのです。
「たいしたことないなんてありえない」。
むろん私も説明や思考を尽くします。
で、どこが問題で受け取る幅か、あぶり出すのに努める。双方疑問もあるだろうし、最初のセッションは重要過ぎますよね。しかしここでも質の差が生まれます。「あ、そうか」とすぐ気づき見つめ直すのが普通です。それが真っ当な姿勢ですが、今はナル男、ナル美の話をしています。
そもそも「自分がたいしたことない役なんてありえない」から入られると、かなり指摘しても無意味に終わる危険さえあります。——いや。その危険しかない。その人が変化を望まなければとくに。
また、なぜ「まじか」と想うか。
もう一つには地続きとして
「きっとテーマやメッセージもこの人、見誤ってんだろうなぁ」と透けて見えるからです。
まず、そもそも自分の役をFAILしている。
そんな人が、構造やテーマを見抜けるだろうか?
ホンに大切に埋め込まれた「補助線」を掘りおこせるだろうか? 私にはとてもそうは想えない。
だからこういう役者に接する時は「まいったな、どうするかなぁ」と対処療法になるのが常です。
だって「対話」になりそうにないから。
相手がナルシスの場合など余計です。そもそもが、
自分がたいしたことない役なんてありえない
から入ってるのだから。その時点で「アンタッチャブル」になるよな。
なぜならそこで仕方なく「真実」(=たいしたことない)を告げたところで、彼・彼女らはとたんに怒り出し、逆恨みさえするだろうから。まさに対話にならず、手が付けられない。
え? そんな私を演出でなんとかしろ? まずはお前自身がなんとかしろ、なんですよ。
「目の前にホンがあるだろ?
ちゃんと読めや。話はそれからだ」
ということです。
むろん今は仮想定・思考実験です。
ですが、少しでも身に覚えがあるならば、その際もうすでに物語と周囲に対し、充分失礼であったことも忘れないほうがいい。(なぜ失礼かって? 大抵彼らはうやむやに煙にまこうとするからだよ)
とにかくそんな「なかなか来ない」輩はどうするかなぁ、とホント気を揉むんですよ。
で、この「気を揉み」たくないので、そもそもそんなナルシスな役者を極力選ばない道を選びます。
(そこで助けになるのがオーディションなんですよ、演出にとって。少なくとも私はそういう役者の【ナルシス度】しか注視していない。短時間だが人のコアは現れやすい。組める人材かどうかを看る)
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正味の話をします。
一定数の役者が「たいしたことない役」とわかった時点で萎んでしまうものです。
これはもう「音」で聞こえるくらいですよ。
「ぷしゅー」
さあ萎んだな・・と私なんかは想うのです。
で、そのあと「この人ならどうするのかな」と人間を観察しているのが演出の性根だったりするから本当に気をつけた方がいい。
彼・彼女の落胆の正体はなんだろうか。
自分が主人公でなかった事への拒絶だろうか。それとも自分が好きな感じのオハナシではなかったか。あるいは目の前の「監督・演出家」を値踏みでもしているのだろうか。
いずれにせよそれらはそのヒトの「自意識」に直結している。しかし、
その「自分自身」と
物語、ましてや役の登場人物は別モノだ。
この点、わかっているんだろうか——?
それに彼らの中の「たいしたこと」って
いったいなんだ?
チヤホヤされることだろうか? 賞賛されたい?
でもそれは「あなた(彼ら)」の願望だよな?
この「役」その人じゃないよね——?
役者って「役をする者」って書くんだけどな。とこういう局面でいつも想うのです。
あるいは——。
死ぬからイヤ?
バカなんて冗談じゃない?
人間、いつか誰もが死にます。致死率は100%だ。誰だってバカにされるのは嫌なことだろう。
しかし、バカこそ——
「自分は違う!」と強がるんじゃないかな。
で、ここに一つ職業的発見すらあるのに。
「バカこそ強がる」——。ここに役作りのヒントがあると思わないのだろうか。
こうした「生きた発見」こそが大切だが自意識過剰者は、こういう発見を中々しようとしません。
それはそもそも「役を受け容れようとしていない」からだ、自分、自分、自分・・!
つまり対話にならない。引いては物語も、作品のスタイルも理解できないことにつながります。
俳優が行う仕事・準備は多い。
当然ですが、自分の科白だけ蛍光ペンでマークすることともワケが違います。
いずれにせよ。そこに落胆や抵抗があれ、その後「どう読み直せるか?」だ。
その脚本から何を気づき、
何を発見し、どう自分を変化させるのか
とても肝要です。
最終的にはその登場人物を引き受け、受け容れ、命を吹き込むのが俳優の仕事なのだから。
でね。
その人物へのアプローチだけでも「片落ち」なんだよ。贅沢を言っていない。まだまだ足りない。繰り返しになるがその「役」を理解するにはその土台にある、
「物語」をちゃんと捉えてるか?
ってことなんだっての。
この物語は何を伝えようとしているんだ?
なぜこれをわざわざ創ろうとしているんだ?
そもそも何が、どの順序で書かれてるんだよ?
で、なぜその順序だ? そこに込められた狙いは?
要するに「読解力」=物語を読み解くチカラが必要だし、その能力こそあなたは「問われている」。
チームの総力戦ですよ、本当に。
だから死ぬ役は死ぬし、愚か者は愚か者として織りなされてるんだ、当たり前のコトだが!
故に全体への読解力が俳優には必ず要ります。途轍もなく大事な話だが本当に見誤るよ、自分くんは。
繰り返すが、目の前のホンをよく読んでくれ。
しかし頭が固く思い込み満載だと、
どんなに何度読んでも
一向に準備は同じままで演技もかわらない。
と言っているに過ぎないのです。
A 物語を中心に据えているのか?
あるいは、
B 自分のパフォーマンスが中心か?
多くが、物語を読めているようで、読めてなどいません。
その自意識の「壁」に気づくことができるのは、あなた自身でしかない。
そしてこの壁こそが——、俳優として伸びるか萎むかの初歩にして、最大の関門だ。
俳優は自意識に敏感であれ。まずは「たいしたことない」をオーライにすることだ。
たいしたことない?
いい試練じゃないか それの何が悪い
あなたに与えられたのは
「たいしたことない」役だ
さあ あなたは どう取り組む
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たいへん筆が伸びました。大切なことなので。
「II」に続きます。これも非常に大切な話。
「想像力と敬意」の話をします。