わが心のBlog

by Hiroki Utsunomiya

話題作と関わる

残念ながら、タイトルは「に」ではない。
話題作「と」関わる。
これについて最近、思うことが多いので書きます。
はじめに伝えておくことがあります。
それは、以下すべては自分自身のトロです。
親愛なる友人諸氏を敵に回そう・感想を踏みにじろうと書かれたものではない、ということです。
いくらでも本人の感想はあっていい。当然。しかし親しい人に薦める時の「ワンモーメント」の話なのです。SNSでの「大きな薦め方」についての話でもありません。もっとプライベートな空間での、気になる点。トピックがトピックだけに、この触書きから始めます。悪しからずや
👇


話題作。
結論から言うとオレとしては、社会現象にまでなった話題作は《取り扱い注意品》だ。

・・という感慨がある。かまえざるをえない。

シンゴジラ
君の名は。
カメラを止めるな

たとえば映画だけに限定すると、最近作でこれらの映画が《社会現象》にまでなった映画だ。
今はクイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」もそうか。(洋画もその時機で勃発する。マッドマックスもプチ社会現象になったし、紐解けばキリがないが古くは「タイタニック」のフィーバーっぷりや「アナと雪の女王」(レリゴー)の流行のような感覚をここで言っている。ララランドもそうかな)

社会現象にまで発展する映画はとうぜん、映画好きのみならず、ふだん映画を観ない人々も映画館へ足を運ばせた「超話題作」ということだ(当然すぎるけど)。その《社会現象》っぷりは今ではSNSを通じさらに伝播し、「まだ観ていないことは信じられない」的な、ある種の強迫観念とともに、オレの元にも届けられる。




まずいぞ、ひじょうにまずい・・




これも結論から言うが、
「良いにきまってる」のだ。要するにメガヒットを飛ばす、それだけの吸引力はフェイクではとてもムリだ。口コミが話題を呼ぶ。悪いわけがない。まずもってそこには勝利しかない。




「超」話題作がでたか・・・




これも結論から言うが「やっかみ」だ。半分以上、自身のやっかみ。Mr. ルサンチマン。全開。
悔しいのさ。そりゃそうさ。みとめる。
しかし。しかしだ、しかしなぁ。まずもってチミ、話題作だから行ったんだろ!? 的な、ヨコシマな邪念をも、不幸にも観る前の自分は所有する。
社会現象にまでなると遅まき的に、ぷち評論家と化してしまう普段の人々も増える。ここにオレはまず屈託がある。流行作に触れて「これは運命の映画だ!」とチカラ一杯喧伝するかもしれないが、映画好きのソレとはちがい、今までの「分母」からくるどこか「誠実さのようなもの」に欠けている場合が往々にしてあるから。もっと言うと大勢が押し寄せ、大勢が「いい!」といった物にその個人(オレふくむ)が「いい!」というとき。そこをどう脳みそを通して言うんだろうか?、という座りの悪さを不幸にも自分は有してしまうときがある。

が!  そこまでもいい! その人の中だけの話だからだ。
何をいつ見てどう感動しようと個人の自由だろ! その通りだ。それに、そうガツンとくらうチカラ。その出会いこそが映画が与えてくれる素晴らしいチカラだ。
が、挙げ句「そういや、このヒトもエイゾーのヒトだった」、とオレに矛先が向かうとする。


え? まだ観てないの? エイゾーでしょ?
志してて、まだ観てないの??



これが 本気でむかつくんだ。
とても解せぬ。




いいんだよ、ほっとけ。

知ってていかない、っていう選択肢もあんだよ





今回のテーマはここだ。もう心の中で言うのはやめにしたい。
こう言ってきた人は親しくても、いや––。親しければ親しいからこそ、できれば言うことにしたい。

まず「悪いわけがない」。絶対にナニカがある作品だ。それはもうほとんど外堀だけで Q.E.D. だろう。
が、自分の中で順序はまずある、ということ。

それは「マインド」にかかわる、目的の話だ。
義務チックな使役のTO DOに対する「足の運び」は「行かなきゃか・・」という重いものになる。
(以前重い腰をあげて「ワンピース」を籠もって読んだのだが(▼参考記事)、その感覚と似ている)
また少し逸れるがラシックス、言わば「傑作として既に判を押されている過去作品」も実は後世の人間は《取り扱い注意品》だ。「勉強のため」というモチベ以外のナニカがないととても身にはならない。市民ケーン七人の侍をどう観るか?ってこと。

しかしそんな目的の順序だけの話ではない。もっと大切なこと!

知ってていかない、という選択は、くらうか喰らわないか、も含むれっきとした「決断」だろうが! ということも逆ギレのように置いておく。


良い作品に出会うと、くらう。
ボディーブローから右ストレートまで、くらう。


お前はくらいたいか? どうだ?


この緊張感すらも余裕で持ち合わせて作品にふれるんだろうによ、創り手ってのは。
当然だろうが。到底、無邪気なファン心理だけで片付かんだろうに。
観たら喰らうかもしれんぞ?
それも含めて、お前は足を運ぶんだぞ?
え、その準備はできたのか?
そんなルーチンをもってして他の映画活動《以上に》「超話題作」に向かうのが通例だっつーの。
今日はあえて書いてるつーの


ゆえに、上記の「まだ、観てないの?(ププ、だっせー)」がどれほど暴力的か(=その暴力にこっちも言葉の暴力をお返ししてもいいのかい?)、ということも、こっちは知り抜いているんだが、ほとんど不可逆だ。創り手同士・具合のわかる同士なら、こうは言ってこない。話題作で良作でも薦め方・伝え方は変わる。

むろん、ほとんど無茶な相談だとも知っている。しかしどうしたって、その思慮のなさにもらい事故をくらうときがある。
つまり薦めるなら「ちゃんと薦めてくれよ」と思うのだが、向こうはオレのメカニズムなんて知ったことじゃない。が、その「知ったことじゃない」ことにフツーに傷つくんだ。ーーそれこそ、そんなこと知るか!、だろうか。


本当にそうか?


君自身が置きたいのか?オレに伝えたいのか?
どっちなんだ? と想うときがある。

超話題作が出る。

すると日々の目的と決断業務のなかに、こんなナイーブな感慨を必要以上に測りながら、映画と対峙しなければならない「とき」がある。これは中々やっかいな問題だ。
この「必要以上に」って点が要注意の所以なんだ。
平たくお願いするならば(?)、
「頼むから話題作を薦めないでくれ、オレだって知ってるさ、その映画の存在は」だ。
逆に聞きたくなるわ、


「あなたはなんで、みんなが観てイイと思ったものをオレに薦めるんだい?」


とね。言われんでも、観よう、と決めたときにちゃんと見るさ。友よ。

ーーこの際もっと言うわ。

こっちは消費すべきグッズとは思っちゃいないんだよ。使い捨ての、自分を輝かすためのアクセサリーとして映画に触れてるわけじゃないんだわ、オレは。ポップなアイコンとして処理するつもりも毛頭ねえよ、そのへんわかって言ってくれてんのか?・・という自分自身に改めて気づかされもする。
繰り返す——君自身が置きたいのか? オレに伝えたいのか? どっちなんだ? と想うときがある。




念のため伝えておくと「カメラを止めるな」も「君の名は。」も「シンゴジラ」も映画館で観ている。それぞれ公開後ずいぶん経ってからだが。

くらったよ。
いろいろ思うことやケチもあるが、ちゃんとくらってる。

しかし、くらうくらわない、を含めた軽いトークなんてできっこないだろうに。オレはそう思います。
もちろん、社交場ではいくらでもするよ?
しかし軽い社交場であればあるほど、もらい事故もガッツリ多い。・・・そんな矛盾はこれからも自分の中でライフワークとして考えることにする。




f:id:piloki:20181211002637j:plain


今話題の「ボヘミアン・ラプソディ」も観てる。
すこし筆を伸ばします。

とてもいい映画だ。クイーンの才能を余すことなく再確認したし、このアトラクションとしての「フレディのすぐ横にいる感」は、無邪気にアガル。

しかし作品は、脱臭剤も相当効いていた
映画的「葛藤」は注意深くも(制作サイドによって)希釈されている。オレはそこが気になった。
ブライアン・メイがこんなに聞き分けのいいナイスガイ(俳優もハンサム)なのかはわからんし、仲違いやEMIとのドロドロはずいぶんスマートに解決する。制作はまさに現代的「アトラクション型」を目指していた。

こういうとき。
自分の中のジャーナリズムと、いいじゃん良い映画なんだから、という自分をも含む「世論」で板挟みをくう。ララランドでも感じたこと。言うなれば、こういう全体感すべてが自分の感想だ。
それにだ。親しい友人に薦めるかと言われれば、


「音楽映画だからって音楽をやってきた友人に薦めるかね?」


って問いが、今回のテーマなんだわ。

彼らにとって、音楽やカルチャーは簡単に消費するだけのものではないからだ。それに音楽の持つ魅力や表現の素晴らしさを伝えたい!、のであればこの映画を観るずーーーっと前に、彼らはすでに手に入れ「行いを始めている」ものなんだからな。

で、その成功者でクラシックスの、
クイーンのイイ曲とイイ展開を、
楽家の友人にあなたはどう薦めるつもりなんだよ? ってこと。推薦する人間がその距離感を(一瞬でも)気にしてないことがかなり多い、ということがテーマなの。

いいんだよ、一瞬でいいんだわ。

一瞬でいいからナニカ感じてから伝えてほしいだけなんだわ。人間の持ちうる、他者への想像力についての話だよ。(オレなら「Anvil!」や「メタリカ真実の瞬間」、「シュガーマン」を強く薦めるよ)
観る人はそのうち観るだろうし、観ないという選択肢も、ちゃんとある。
それでいいのに「流行」には違う乱暴な側面がある。という話だ。



単に映画ではなく、
日常の話でもあると思い、敢えてつっこんで書いた。オレにとっては映画だが、これがお茶碗の人(お茶碗職人)や飲み物の人(飲料メーカー)でも同じことだと思うからだ。

それに「流行」という側面。
戦争が「流行」したら、あなたや私はどうふるまうんだろうか。
自戒と自問をこめて。友人に捧ぐ。
以上、わが心のブログでした





f:id:piloki:20181211002459j:plain

「カメラを止めるな」長屋和彰さん。
ずいぶん前のことだが、一度出演してもらったことがある。

これからもどうかガンバってほしい。そう想いながらスクリーンを観ていた