わが心のBlog

by Hiroki Utsunomiya

劇場、テレビとスマホ

劇場、テレビとスマホ
これはメディアの違いや「大きさ」以上に違いがある、と今日寝ながら思った。
今さら、というか、あらためて。

メモのような記事。
でも、文化の日だから、ちょうどいいか




劇場。シアター。
これは本当にリッチコンテンツだな、と思う。
それと同時になんでリッチなんだろう? ってあらためて言いたいんだが、結論から言うと、



それは、ヒトを介すからだ



と(今日寝起きに)しみじみと感じたのだった。


劇場にはスタッフがいる。それもふくめて「料金」がある。
もっと大事な点は「案内人」「誘導員」がいる、ということなんだ。
これが本当に大事な点だ。

映画館で考える。
制服を着たヒトがもぎりし、何番スクリーンです、と言うだろう。観客はそれに従い、《暗がり》に入り、15分が相場の(長い)予告編という広告を通して映画に入る準備をするのだ。
シネコン時代でさえ、だれかが映画のスイッチを入れないと映画は始まらない。
そんな映写技師のスイッチで開巻すると現像されて作り込まれた、多くの場合、まだ観たことのない映画の世界がはじまる。これが1800円である。

演劇の観劇はもっとしっかりしている。定時での入場ではほとんどなんの問題もない。むしろクロークで荷物を預け、開演までカフェを楽しむもよし、だ。

で。途中入場の前には必ず誘導員がつく
そして中には大抵暗い《踊り場》があり、まずそこへ誘導される。外の明かりを中に入れないためだ。
この《踊り場》が重要で、


あなたも今から劇世界に入りますよ。準備はいいね


というココロの装置になっている。
実に気が配られているやり方だと思う。
そして開演すると、舞台の上では実際の人間の肉体がなにかをするのだ。
そしてこれが、3000円から1萬円だ。



もう、大体今日なにが言いたいか、わかると思うけど、要するに、リッチコンテンツには




外部(世界)がある




んだよ。
あたりまえ? そうは思わないな。
どうしてそう思えるんだ?ってくらい、そうは思わない。
外部。世界。まあ難しいことばだが。


テレビやスマホは風呂場で見れるよね。見ようとすれば。
テレビは茶の間の世界で、家族だよね、単位は。むろんそれも今はもっと細分化してるけど。
スマホは完全に対そのヒトのツール。

案内人はいる? いないでしょ。
テレビの前に「ちょっと待って。他のお客様もいますので」ってないでしょ。スマホを開く前に「ちょっと待って。深呼吸してください」ってないでしょ
もっと究極を言うよ



そのサービスにいくら払ってるんだって。



そのサービスにいくら払ってるんだ。
これは何度でも繰り返したいが、あなたは、そのサービスにいくら払ってるんだっての。
ワシャ、ネット料金はらっとル!
そうだね。 でもそれはシステム料金だ。
システム(仕組み)とサービス。そこをしみじみ考えて切り分けたほうがたぶん良い。

FacebookTwitter、LINEにいくら払ってるよ?
これもシステム(仕組み)だがいくら払ってる?

広辞苑と百科事典と図書館と映像ライブラリーと智惠と人間の営みの紹介とディスインフォメーションの溢れるネットサービスに、いったい、いくら払っているのか


それと、自分の足でわざわざ出向き、
《暗がり》に座る行為との違いはなにか、ということを。


フリーの民放テレビから流れる情報に、
あーだこーだ。むろんあっていいが、「でもそれ、ほぼ無料だよね?」という付箋は常に必要だ。
これほどのクレーマークリティカルはないと思う


こう考えていくと、一気にネットも肉体化する気がしない?
うわ、途方もねー。と思うでしょ。
それこそが「世界」だよ、オレの言うところの。自分ではないもの。
オートメーションの自動化ではない時、世界ってやつは顔を現わすんだ。
部屋を見渡してごらん。
そこには自分ではないものが広がっている。そしてオレは部屋の掃除をしなきゃと思いだした。




今は寝起きなので、ここまでだ。べつに怒っているわけでもない。笑
それに押しつけるつもりもない。
寝起きに急に「誘導スタッフ」の、もっと言うと、案内のお姉さんをふと思いだし、なんかいいんだよなそのお背中が、と思ったのです。

案内や誘導スタッフさんは縁の下ではない。
立ち寄るオレにとって、立派なりっぱな、素敵なコンテンツなんだよ