わが心のBlog

by Hiroki Utsunomiya

ラインリーディング

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備忘録として、どうしても書いておきたい。
もうみつき以上前の話であり、今では思い出だ。また、当事者間の交流は健全に今も続いている。
これは当時の記事に多少の加筆をしたものである。


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最近、俳優のメカニズムをあらためて知りたく、また、結局のところ演じることは愉しいので、とある演劇の団体で初心で学んでいる。むろんそれ自体は愉しいし色々なことが起きるのだが、先日も忘れられないことがあった。
その日は日頃のエクササイズ的ワークショップではなく、一つお芝居をたてよう、ということで戯曲の初日稽古があったのだった。オリジナルの戯曲が上がったのがその数時間前で、読み合わせも当然初めてだった。そこで、まあ、通しで読むわけだが、その後、作演をつとめる方が、オレが行ったひとつの役の、ラインリーディング(セリフを読んで聴かせる)をしてみせた。



イッパツで萎えた・・・



この演出の方は普段からたいへんよくしてくれるし、フレッシュだし、仲がいい方だと感じている。もちろんオリジナルの台本もまずもって書き上げたこと、その情熱に敬意の念がある。
が、その時のラインリーディングには落胆し萎えてしまったのだ。それもその役のセリフを長々とやられたのだった。こう読んで欲しい、と。 正直言おう、オレはその瞬間ドン引きしてココロを閉ざした

ラインリーディング」とは、見本を示すように台本のセリフを演出家が読み上げて俳優に伝えることだ。これは御法度というか最終手段にしている流派が多い(とくにアメリカ演劇界では。現にLINE READINGにふさわしい日本語はない)。別にハリウッドがエライわけでも、欧米万歳でもないが、逆の立場になればすぐわかることだ。セリフや動きをやって聴かせ、その通り完コピせんとする俳優の気持ちを(すこしでも)考えれば。
オレも滅多なことではやらず(←MAでナレーターの方に時間なく行うときがあるが「意識下」である)、その水際でなんとか別の方法・注文を探すのだが、久しく味わっていなかった想いを味わった。


それは屈辱に似た感覚だった


読んでやって聴かせるから、このテンションでそっくりそのまま真似てな?
そう、言われているようなものだからだ。これは、かなりこたえる。
しかも稽古初日である。もう一度言う。初日のそれも初回だ。 双方、ずれて当たり前じゃないか。それもみんなの前で! しかもその役は、その後なくなるかもしれないというにも、かかわらずだった。
いやー・・・そんなにわるいかね?とは訊きたくなった、普通にね。(今、かなり抑えて書いている


しかしこれはこの業界の、というか日本の演劇界においては日常茶飯事なのだろうと同時に想った。
この界隈ではおそらく問題にさえしていない/気づいていない演出家も、受けて普通と思っている俳優も多いのだろう。現にその場には多くの人がいたが、この致命的なミスに気づいているのが《俺ひとり》という人口の少なさも、まず思い知ったのだった。だからこそ余計にショックでオレは凹みきったが、その日の収穫として自分だから言われたのだということだと(ぎりぎり)言い聞かせた。
つまり自分の本業としての演出家、そこへのギフトなのだ、と考え直した(のがやっとだった)。なぜなら、


ラインリーディングは行うまい(滅多には。)


と自分はあらためて、心に固く誓った・誓えたからだ。
それはあまりにも、俳優にとって屈辱的だと身をもって痛感したからだ。
そうか、こうして傷つくのは、たしかにごめんだわ。——こうして俳優の心は演出家から離れていく。



むりもなく自然と、自分が「Going For Sunday」という自主映画を撮った10数年前を思い出した。
その時のオレは20代で若く、当時の撮影チーム(というか俳優)にスパルタであたっていた。
(今回、演出の方とはむろん比べものにならないほど、ひどい話で。)もう、ホントに許せなくて許せなくて、コールドで強権をふるう嫌な監督だった。強烈に。 しかし、当時そう当たっている時点で既に、そんな自分に嫌気もさしていた。


「こんなの、不健康だし、不健全だ・・・」


いっこくも早くそんな演出方法から抜け出したかったが、当時は方法を知らなかった。
そこからだ。オレが俳優のメカニズムを知りたくて、いろんなワークショップを受けるようになったのは。
現に今回も、こうして体験している。
が、なんか、当時の俳優に逆襲された気分が一瞬だが、した。
こうして、幕があがるまで踏ん張んのか・・・役者は。そんな感情の100分のイチ理解した気がした。
で、たぶん、舞台にあがること自体が本当に貴重だから、必死になってついていくんだろう・・・なんてなさけないんだ・・・そのモヤモヤ具合は・・・きつい。きついし、とても割り切れたもんじゃない
ごめんな、あの時の記憶・・・



とある俳優が、
オレに電話してきた想い出も蘇ってきた。

「オレの演技、古いか? やっぱ大袈裟にやんないとまずいのか?」

その彼は当時の現場で悩んでいた。
オレはそんなことないよ、ぜったいわかってくれるよって言った。
当時のオレも、よく言ってあげたと思う。 その通りだと今ならはっきりとわかる。
そしてその彼は、その後、オレの手が届かないほどの存在にまで駆け上がっていった




さて。オレの話。 すべてはオレの話さ。
舞台はまたちがう体験が待っている。 さあ、備忘録はこの辺で、オレ自身を開放しよう!




7/23記


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以上、備忘録まで。

その後演出家の方とはもちろんちゃんと対話したし、彼自身その心当たりを、師匠の言葉に思いだしたようだった(オレが自分の作品を思いだしたように)。そうしておたがい、納得して仲直りでき、一緒の目標に進めたように思う。もちろん今も交流は続いているし、対話できること自体がなにより素敵な資質ではなかったろうか。むろん自分をふくめヒトは「一長一短」なのだ。それらプロセスが表現に強度を与えると信じるし、なにより前に進むには必要な行程だった

そうして舞台はでき、オレも出演し、あっという間に終わった。そういうことだった








(再追記:11/17)

・・・というのが、ナイーブなエントリーであるのだが、一方で、

そこにアグラをかく

ことも同時にゆるせない自分がいることもあえて告白しておきたい。
つまりここで「ラインリーディング」なる用語を知ったとして、だからって《我が意を得たり!》と演じる側が「そこにアグラかくんじゃねぇぞ!?」ということだ。ラインリーディング禁止だからって全役者志望が保護されるのか?というとそうではなかろう。アクト側が安堵してアグラをかいては話にはならないし、なによりそうだと選ばれることも成長も永劫なかろう

このブログでも何度でもかきたいことだが、そこへの自分のプロセス、自意識の監視が本当に必要だ。
しかもそれだけじゃまったくの片落ちだって。(ここがホントに多くの役者の盲点であきれもする)
売り出したいアイデア(自意識)があったとして、どれだけ外との反応で捨てることができるんだよ? しかも捨てるだけじゃなく、どれだけ目の前の空間に飛び込めるんだ?ってハナシだ。
今そこにある自分以外の空間への距離感・感受力が徹底的に必要ともなる。ようはどれだけ自分以外のヒトやモノにてめえのココロ開けてるか? 相手を発見できるか? でしかない。

しかもそのアイデアが役の上での《分析による確証》だとしても、いともカンタンに(相手側のダッセえ反応によって)モーメントは崩れ去るのだ。演出はそれをどう保護するのかという話でもあるのだ。ゆえに、良い俳優は傷つくだろう。しかしそういう運命にあるなかで、《アグラをかくな》なのだから。


もうこのへん語り出すとまた長く(あつく)なるから、本当にまたの機会に

以上、再追記! おしまい