わが心のBlog

by Hiroki Utsunomiya

ウィキ男と美意識、細部と全体

僕は演出の仕事をしている。
映像ディレクター、という肩書きでもあるが、その実は「演出」だ。
演出とは何か? 自分なりにひとことでいえば、


なにがイケてるか を瞬時に選ぶ行為


これが演出だと思っている。
今、手元にある全てを使って、「イケてる」の高みに目指すこと。
よりイケると思うから、TAKE2を撮る。よりイケると思うから、変更する。そういうことである。
サブ要員しか居ない場合や河川敷の一戦であれ、この布陣で「イケるのか」を考えることも含まれる。
なんて不遜だろう! と思うだろうが、そうなのだ。
でも現にこのポジションの人がいないと、どうなるだろう?
「いや、先生の縁故なんで・・」だとか、「この人が出資元だから・・」とか、そんな政治プンプンな、生活感情優先な、PTA的な布陣の中、美意識ではなく力学だけで、モノや芝居が創られるだろう。
で、そこで問いたいのは、


で、それ、面白いの?


ということだ。観客は正直だ。 面白けりゃいいよ。面白ければ。でも、だ。
観てる人にはバレている。なにもかも。少なくとも、オレが客ならバレる。ということである。
映像にも、演出が必要だ。それだって、ただでさえ、政治に負けるのだから。

そんなシガラミの中、規模の大小はあれ、演出の仕事とはそういう空間把握とキャスティングが重要になる。先の件で言えばオレは、縁故の出演者であれどうしたらイケるかを探るし、当然、PTAの美点も探すだろう。
ということは、裏返せば、ぶっちゃけどう思っているか?
つーか寒くない? サムイよね?、ということに正直でフラットなキモチでいることが重要である。
それにイケてると言ってなにも、イケメンで構成する、とかそんなことではない。念のため。


しかし一方で、お気づきの通り、なにがイケてるのか? という定義問題も横たわる。
お前のアタマが考える「イケてる」なんて! ぷぷっ! ダッセー! 気付いてる?
あのな、最新は●●なんだよ! 知らねーの? ププっ!

ここは過半数の多数決問題も、自意識問題も、油断問題も、勝敗問題も存在する。
ようは問題ばかりだが、そこでは自分の美意識の書換を迫られる場合すらあるだろう。
しかしその勝ち負け(論破的エクスタシー)に囚われすぎると、成長も変化もなかろうと思う。
それこそ今は、ただでさえネオ相対主義まっただ中で、壊すだけ、も一つの相対だからだ。むろんその抵抗感として、持論に「こだわる」ことが(今、逆に新鮮で)美徳なんだ!という逆バリもあろうが、そういう恣意的な思惑も(今は)あまり効果をみない。
論破や現状へのこだわりよりも、どこへ向かいたいのか、を自問すると双方の立場が落ち着くと思う。

正しさの時代でもなかろう。正義は、角度をかえれば(テロリストにとっては)悪なのだから。今って実に厄介で、ある程度以上、知識の刷新も必要となる。ただ、前述のようにそこで「ぷぷっ!」もイケてないとオレは思うのだ。すげーダサい。

なぜならWikiも、ウィキ子
(ウィキ男・・知識への強迫観念者。ちなみに、私が作った造語(©オレ)である。)


So What?」 だから何なの?


という思考のその先へ超えていってくれないからだ。その知識で、とまる。
むろん知識はないよりあった方がいいが、知識という「外部」を基準にするならば、では「観察」はどこへいったんだ? とウィキ男に問いたくなる。 で、その(素晴らしい)知識から得た「感慨」でお前は何を想うのだ? こういう「観察」の果ての、お前自身を見せてくれよ、とよく感じるし、それがオレの「イケてる」の基準なのだ。本当に。(少なくともウィキ男は俳優には向かないし、要らない)

ウィキ男とウィキ子はもう、この地球上にいっぱいいる。あたまのいい人(←ヂ頭のよさは置いておく)もたくさん居る。だから、そんな知識合戦の行為になんら魅力も感じないし、オレは「あ、そう」なのだ。これはコミュニケーションの話でもある。(知識が必要ない、とは言っていない。人間の魅力についての話をしている。) よく居るでしょう? ウィキ男。

ここでも(申し訳ないが)サッカーを例にとる。
サッカーにはある程度以上の技術や公式も(絶対に)必要だが、なんと! それだけでも、勝てない。
勝つにはゴールという「事件をおこす」必要があり、そこでは「ひらめき」という着火剤が必要だ。
しかも現代サッカーはスリーコンボの時代だ。味方が3連続の光プレーをつなげることで(ようやく)ゴールが生まれる、という、それくらいでないとディフェンスの牙城を崩せない時代になっている。

これはそっくり、論破ニストとドリーマーたちの昨今の対決にも酷似する。
論破ニストのディフェンスをドリーマーたちはかいくぐり、果たして点を決められるだろうか?

その意味で、ドリーマー/アーティスト(アタック連合)は、よりひらめきと汗をかくことが大事で、汗しない批評家/論破ニスト(ディフェンダー連合)の盲点をつき観客を感動させなければならない。
その対決であれば悔しさがあっていいし、その人間くささも素直に披露してほしい、とオレはオレで表現者(Artist/Actor)に対し思うのだ(もちろん自分に対してだ。もっと汗かけ!オレ!)。
で、それも程度で。勝ち負けばかりで、たとえばサッカーACL、浦和対清州戦の試合後(▶参考記事)の乱闘もかなりみっともない。


f:id:piloki:20170626155013j:plain 怒りの追いかけっこ



でほら、「これだから韓国は・・」って言いたがるのが、過去の自分だと思ってごらん。
過去の自分が、いまそこにある現象の考察にサボって、判断しようとしている、って考えてみてよ。

上記写真。この韓国人選手もみっともないが、とにかく発露している。怒りで我を忘れ槙野選手を追いまくっている、と言えそうだよね? 自分でも気付きながらにして、止められない想いがある。
でも、それはなんでなのか? って想いませんか。
そのプロとして毎日精進する立場をして、トンでしまう怒り。それはなぜか?

「耳を傾けてもいい」。
ーーこれがオレの、過去の自分ではなく、そこにある「観察」の果ての想いだ。

最初にくらべて、ずいぶんこの韓国人選手への印象も違ってくる。
しかし、それが思考の旅だ、と思うのだ。思考も、時空を超えて旅ができる。
一枚の写真だって、交流ができるんだと思うよ


演出は、と言うか、生き方として、自分はこういう「ミクロとマクロ」が大好きだ。
細部と全体を、ぐるんぐるん見渡しまくること。自分の想いに「いや待てよ」と疑うこと。
そしてなにがイケてるのか、を感じること。細部と全体に、影響されてハッとすること。
で、けっきょく自意識に戻り、愛で、また、自意識を煙たがる。このくりかえし。
そんなリトルブッダな作業を通常とするから、このセクション(演出)が好きなんだ。




今日は本当はこのことを書こうと思ったわけじゃなかった。
本当は、演技の歴史について触れようと思っていたのに。
スタニスラフスキー・システムが日本に入って「新劇」に。アメリカに入って「メソッド」に。
この違いはとにかく面白い。 国情や国の性格を表しているなぁと感じる。
で、アメリカでも、リー・ストラスバーグステラ・アドラーでは見解が違い、それはそうだよな、と思うことを中心に書こうと思ったんだけど、なぜか、こんなになっちゃったわw


久しぶりに、ちょっと踏み込んだことを(自動書記状態で)書きました。
が、本来、こっちが大好物すぎて話し出すととまんなくて仕方ないことは、内緒だ。

では、ではまた。