わが心のBlog

by Hiroki Utsunomiya

孤独の分量

「自分あるある」として、よくフリーランスってなに? みたいな話題の時、振る笑い話がある。
自分の家が仕事場だったりして、羨ましいよ、オフィスに人がいるって、てな話のフリのアトに、


「誰とも話さない日だってあるしねえ。
 それに、あ、今日初めて口から出たぞ、って言葉が、
 『あと、から揚げ棒ください』だったりするからね。ワッハッハ!
 で、その声がさ、かすれてんの。
 声って出してないと枯れてくんだねえ?
 たまには独りでもカラオケ屋で叫んだほうがいいよ、ワッハッハ!」



なにがワッハッハだろうか。完全に落涙モノである。
相手もオレもこの話を笑っていいのか見当がつかず、お互いの表情を探り合う感じがまたいい。
しかし笑い話なんだからこれくらい攻めてないとねぇ? ジャブ打ってなんぼである。
フットワークでジャブ打って、思いっきりストレート打ち込まれる感じ。(痛ーぃ!)
ちなみに自分の身の回りはこんな話の「宝庫」なんだが、ブログで書くのは極力抑えている。
問題は公的汎用性をもたないこと。それにこのリソース自体、意外とレアメタルなんだよね。
今日は(誰にたのまれもしていないが)少しだけ書く。年も瀬なので。

もう1つ、フリーランスには、決定的に重要な欠陥がある。
いや、独り身の欠点と言い直した方がいいかもだが——それは、



仕事の目撃者が少ない



という点だ。これは世に出る仕事が少ないという意味ではない。 文字通り、仕事の目撃者だ。
「いまこの瞬間を目撃してるのが、他ならぬオレだけ」、という事態に直面すること。
これは予想以上に孤独感を誘発するものである。

助手などが居ない場合「同列」のセクションは、オレひとりだったりする。
クライアントやプロデューサーが同列であることはきわめて珍しく、手伝って貰うスタッフも上下関係を払拭するのは長い作業となる。 フリーランスとはすなわちてめえのウデ一本なところもあり、やせ我慢の美学(ダンディズム?)も多分に存在する。 要するに、独りが多い。
この目撃者の少なさは、さきほどのリソース同様、とてももどかしい。
「こんな景色、そうは観れない」、というものを実際見ており、それを共有できない。
なんだっていい。居酒屋で同僚に吐く愚痴で充分だ。しかしそのはけ口が(純度として)ないわけだ。

しかしもともと、アートとはそういうものだろう。 実際、SF映画の金字塔「ブレードランナー」で、レプリカントのロイ・バッティはブレードランナー(特別捜査官)デッカードにこう言う。


Roy
I've seen things you people wouldn't believe.
Attack ships on fire off the shoulder of Orion.
I've watched c-beams glitter in the dark near the Tannhäuser Gate.
All those ... moments will be lost in time, like tears...in rain.

お前たち人間には 信じられない光景を俺は見てきた
オリオン座の間近 炎を上げる戦闘艦
タンホイザーゲートで 闇に瞬く光線
そんな記憶も やがて消える 雨の中の 涙のように


この宝石のようなセリフは、俳優ルトガー・ハウアーのアドリブだったらしい。
しかし、であれば尚のこと、ルトガー・ハウアーはこの役を演るのに相応しい俳優だったと言える。
なぜなら、完全に孤独を知り抜いている仕業だからだ。だからこそヒトの心を打った。

そうでなくとも、色んな映画を思い出してごらん。
どの映画もその個人の秘密や、その人しか観て来れなかった景色が映されているものだ。
文学なんてとくにそうだろう。太宰治は「一つの約束」という随筆でそのことを言い切ってもいる。

オレでさえ、こう思うときがある。
ちょっとのクオリティの差、もしそこに「よさ」があるのだとしたら、それは孤独の分量だよ、と。
そこに対象は不問だ。子ども向けでアレ、恋愛モノでアレ、老人向けであれ、企業のVTRだろうと、ちょっとしたプロモーションだろうと、そのちょっとしたクオリティの差は「それ」を知っているかどうか。 もっと言うと、作り手がそこの住人かどうかだろう、とね。


さて。 でも「だからってさぁ」という方向の話も当然あるし、オレもバリバリですよ。
人生の豊かさとはいったいなにか? という、さ。
しかしそこも、そこは、そここそ、そこで、まさに、言う必要も書く必要もなかろう。
だって、人生にから揚げ棒は必要だろうか?
それ自体ではなく、そこを巡る話を今日はしたまでさ。


来年は どんな景色を目撃するんだろう
それではみなさん、よいお年を。