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わが心のBlog

by Hiroki Utsunomiya

高畑勲のかぐや姫の物語

昨夜、深夜ぽくぽく帰っていたら曇天を縫うように、霞がかった満月が南東の空にあった。そうか、まさに十五夜、中秋の月じゃないか、なんて思うのだが、偶然にもそれは、高畑勲の「かぐや姫の物語」をDVDで鑑賞した翌日のできごとだった。

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高畑勲かぐや姫の物語」2013年。
公開中に映画館に行くつもりだったが、つもりで終わり、それから3年後、一昨日拝見した。高畑氏とそのチームが長い年月をかけ完成させたそれは、たしかにズシリとくるものがあった。心に、残った。

残った、のだが、これが製作に50億かかっているだの、取り巻く情報は穏やかではない。
これはもう、高畑勲という才能にアサインした時点でうごめく怪物級の業(カルマ)だ。し、そこにきっちり責任をとれる体制と耐性がある(つまりジブリ、というスタジオがある)こと自体が、強烈に豊かであり、ものすごいことだ。ひとつの過激すぎる愛と言っていい。

本当に、アニメはラブでしかない。
なぜなら実写のようにノイズがないからだ。ノイズを載せるにはノイズを書かなくてはならない。
アニメには自分の意志以外のものは載らない。実写のように偶然現像してしまったものはないのだ。
完全にフル意識下におかれた全脳のバトル。ゆえに、その作家性のすべてが否が応でも出てしまう。いや、作家は一人では作れない。作家とアニメーターのバトル、作家とプロデューサーのバトルなど、すべてを一緒くたにした「作家性」を、磔(はりつけ)のように表すのがアニメという代物だ。

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かぐや姫の物語。この物語について、少し書いておきたい。
観ればこの物語は、《カミングエイジ、通過儀礼》の話だった。
かぐや姫という「わらべ」が女にさせられる、女に仕立てられる、そのゼロポイントへの抵抗と焦燥をこれでもか!とわかりやすく提示した物語だった。
オレは【このエントリー】で「オズの魔法使い」がドロシーという少女の、女(オンナ)になる直前のエイジをどれだけ描くものなのか、と恨み節のように(笑)書いているが、つまりは、かぐや姫の物語もそうであったのだ。 ちょっと今日は、あえて核心を書く!

男の成長過程が

子供 => オトナ   だとすると 女の成長過程は

子供 => オンナ => オトナ   という成長過程を辿る

 
言うまでもないが、女性の方がトランスフォームする回数が確実に、絶対的に多い。
上記は簡易であり、本当は、3つか4つくらい女性の成長過程は多いはずだ。
(だーかーら、女性の方が精神年齢が高いと言われるわけ。え? 今さら? まあいいじゃないか)

ゆえに「わらべ(子供)の記憶」が、忘却の必要に切迫感をもって晒されるのはいつだって「おんな」である。 いつだって麗しき「幼年期の冒険」をある意味、捨てなくてはいけない、あるいは、忘れなくてはいけない条件や事件に必ず遭遇するのが、女のほとんど「宿命」なのだ。

くり返すがなにも、これを言っているのはオレじゃない。
現に、高畑勲もそのことしか言っていない。
すくなくとも本作かぐや姫の物語」と「思い出ぽろぽろ」は、そのことしか言ってない
女性のカミングエイジもの。わらべから「おんな」にならなければならない期間(否が応でも)。
そのもっともデリケートで切なく、残酷な時期が高畑勲という作家の心を奪っている。
本作を観るとその気持ちがよくわかるのだ。
(なお本作は若年層に受けてないとのことだが、構造上やむなしだ。思い出ぽろぽろと一緒である)

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もう二つ、この映画を見て気付いたことがある。
それは、死についての映画だということ。
それと、これはもしかしたら、かぐや姫宮崎駿かもしれないということだ。

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(☝ちなみに、これは「阿弥陀如来来迎図」)


死について。 これはこの映画のラストに顕著に表れる。
高畑勲による、この国最古の物語「竹取物語」への解釈を堪能できる瞬間と言ってもいい。
月からやってくる一味のリーダーがどう見ても、釈迦なのだ。w

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月の衣を羽織れば、地球(下界?)での記憶がなくなってしまう。
かぐやは必死に抵抗して、育ての親オキナ・オウナと抱擁する感動シーンがあるのだが、これはつまり、「死に抵抗する家族」にしか見えない。月の一味がそんな最中、かぐや姫にサクッと月の衣を羽織らせてしまう。するとカツーンと今までの抱擁を忘れ、月の住人として、トリップしてしまうかぐや。

もう、この描写なんて「死」でしかなかろう? 死がやってきたとしか思えん

ほとんど「オール・ザット・ジャズ」の、最後のロイシャイダーかとオレは思った。
月の住人とは完全に死のメタファーではないか。
するとこの映画は、早逝する少女の夢とも取れる。竹から出た……、そうか、今で言えば、もしかしたらコインロッカーベイビーかもしれない。かなりひねくれてアクロバットに解釈すると、ね。それを育てたのがじいさんとばあさんだ。

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さいごに、かぐや姫宮崎駿 説を。
これは、この映画を観た後に、【こんな記事】を見たからだ。 ☜ぜひ読んで欲しい。
上記記事を知らずとも宮崎駿の、高畑勲に対する過激な偏愛はファンであればうっすら聞き及ぶところ。この映画中の、かぐやの兄貴分・捨丸にいちゃんと、かぐやのロマンスがカギだ。

  かぐや「捨丸兄ちゃん・・・・・・わたしはいつでもお兄ちゃんの子分だよ」

というセリフがある。きわめて重要である。
キャリアの若竹時代を高畑の子分として過ごした宮崎駿、この事実を当てはめたらどうだろう?

捨丸兄ちゃん=高畑勲  かぐや姫宮崎駿

気持ち悪い? いやいいのだ。続ける。
こう仮定すると、ちゃんと高畑勲宮崎駿の愛情に、たしかなお返しをしたことがわかる。
物語のクライマックス。
時を経て再会したかぐや姫と捨丸は、空を飛び、抱擁し合う。それがたとえ夢であれ、どうしてこのシークエンスがあるのか? その必要性が痛いほど伝わってこようものではないだろうか。

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もち、邪推と付してもらってかまわない。
物語通りとっても、このクライマックスはカタルシスに満ちあふれている。


さて。そんな「かぐや姫の物語」。すっかり長くなってしまった。
まだの方は、タイムリーなこの時期にいかがだろうか? 芸術の秋ですよ