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わが心のBlog

by Hiroki Utsunomiya

ロクヨンという涙腺事項

「64・ロクヨン」の前編を、6月1日映画の日にレイトショーで観た。
寝て、起き、冷静になってしまったのでこれを書く。

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この映画はとてもいい。感動します。
俳優の演技はすばらしく、とくに佐藤浩市(以下敬称略)と永瀬正敏がすごくいい。
そして赤間部長をやった滝藤賢一。このヒールっぷりがキレキレでたまらない。
主人公サイド、あるいは日陰に追いやられた者ども以外は全員クズなので(失礼)、その大量さがだんだん気持ちよくなっていく、という、まさにセラピー的な効果のある娯楽映画だとオレは思う。

これは多くの人に観てもらいたいエンターテイメントだ。
が、皮肉にも、多くの人が観れば観るほど「ばれる」設定が、2つある。以下、そのことを少し。
感動は置いておく。本当に泣きたいひとは、大いに泣けます。
が、しっかり泣くためにも、2つの設定を無視する必要がどうしてもある、ということ。

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◎1つが、記者クラブ
この「記者クラブ」、むろん多くの刑事ドラマの典型で、ロクヨンもそれに倣っているが、これは現実の「それ」をまったく描いていないことは、知ってしまうと実は明らかです。
感動を妨げ、萎えます。現実は無視しましょう。 なぜならこの記者クラブとは「記号」だからだ。

◎2つ目が、ひきこもり。
14年にわたって実家の自室にこもる元・警官(窪田正孝)が登場します。しかしこれもヘンです。
母親は手紙でこの長き日々に通信している、とのこと。
食事はいいとしよう。 お皿を部屋に入れるのだろう。想像できる。
しかし、うんこはどうしているんだ? それと決定的に萎えるのが、そのひげ面だ。
14年部屋にいた割りにはキレイな顔立ちで、さくっと萎える。この設定はかなりもったいない。
このひきこもりを解放する啓示があるだけに、創り手は気を抜いてはいけない部分だ。

主人公の記す、この啓示の文言は美しい。(美しい部分だからこそこだわって注文する)
が、しかし主人公(佐藤浩市)は14年間事件を顧みなかったわけで、どうしてもこの名文までに至る動機がわかるようで実は曖昧だ。 これは佐藤の娘の失踪パートがあまりに未消化だからでもある。
ロクヨンという未解決事件への執念がこの映画の発生によって「沸いてきた」。そんな勝手さ。
ここへの断罪がよくよく考えると、ない。という。そう辛めに評価すればあるっちゃ、あるのだ。


以上が、涙腺事項だ。
オレも設定厨(←設定ばかりきにするばか)ではないので、上記2つは無視して欲しい、と言いたい。
なぜなら、リアルタイムでは「よくよく考える」ことはないからだ。 ゆえに、曖昧? 人生はその通り、曖昧だ。それのなにがいけない? そうして映画という媒体は進んでいく。進んで行ってしまう。
そこでどう感動させるか、という勝負である、と創り手も言うだろう。
見終わって鎮火したあとの「よくよく」は蛇足というか、副作用だ。


しかし、客が金払っておいて弁護する、というのもおかしな話だろう。


このあたりの「副作用」を「よし」としだしたのは、ハリウッド大作の影響だ。
それらが大量に「よくよく考えるとへん」を許容してきたからだと、オレも思うのだ。
それこそ「催涙スプレー」で煙にまく、というか。
そんなアコギな「感動作」を、我々は見過ぎているのではないだろうか?


というわけで、すべての勝手さが、すなわちそれ自体が「生き物」のようで、気持ちいい映画。
みなさん、劇場で観てみてはどうだろうか?