わが心のBlog

by Hiroki Utsunomiya

カフェ3.0 孤独をつつむカタチ

まず街で確認するのは、そば屋と喫茶店だ。


無意識にこの二つのありかはついロケハンしてしまう。(今日はそば屋はおいておこう。)
どちらもだが、これらは「孤独装置」だとオレは思っている。

それも、優しい孤独装置。

茶店は独りが許される場所。いや、孤独に浸かれる場所だ。
この定義に異論はなかろう。だからその街の喫茶店の多さで、言わば「孤独の許容量」が測れる。
孤独の許容量がたかい、とすれば、それはすなわち「洗練された街だ」というのも持論だ。
(ゆえに、カフェ・喫茶店のめちゃ多い、京都はほんとうに素晴らしい街だと思う。)

以上が、いわゆる喫茶店好きの、いわゆる、おれの考える喫茶店、である。
これ以降は、今世紀型のカフェを想う。 勝手に。

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スタバやコメダといった「今」なカフェ。
これらはフランチャイズなので、独自の地域性や味わいは皆無である。
それにメジャーなぶん孤独度数のレートは低く、まぁ、とにかくウルセーわな。会場は。ただ全国にあるぶん、地域性の代わりに「どこでも同じ」というメリットがある、とも言える。おれ自身もひねくれてメジャーは一切使わない!、というわけではない。

いや。

むしろ、使いすぎている。
気楽で店内は明るく、街の小さな喫茶店より駅前のこっちの大型店に入ってしまう。
すっかり「ルーチン」化している。

この現象はナニに似ているか、と言えば。そう、それは映画館が経ていった流れと一緒だ。
ブロックバスターなシネプレックスがガチョンと輸入され、ミニシアターはなくなっていった。
で、そんなシネプレックスでコーラとポップコーンを頼むこともルーチン化している。
なんだっていい。 イオンで地元の商店街は……でもなんでも。とにかく、そんな現在があろう。

今世紀型カフェ。これを「カフェ3.0」とでも呼ぼうか。
そういった「喫茶のルーチン」化のキワに置いてであれ、大切なミソがある。
それは、それでも「こどく」を取り扱う、ということなのだ。
当然だがスタバにしろコメダにしろ、巷では(必要いじょうに)賑わっているが、そこで「こどく」を排除することはけっしてない。


店員「ごめんなさい、お一人様? ちょっと、そういうヒトはお断りしているんです(嘲笑)」


ナイ。それはナイのだ。
その一点において優しい孤独装置たりえている。

いや。じつは。
コメダ(や星乃珈琲)なんて実は「そっち」である。
というのも「ひとり作業」に寛大だからだ。電源がとれないだけで(!)、あとは好きにしてくれ、という潔さを感じる。まるで、立ち読みを歓迎するコンビニのような意志を感じ、これが実はビジネスモデルにすらなっている。

なおスタバの、
学生やリーマンにおける「ドヤリング占拠」の光景は、おれは好きではない。

それは2点において。
一つ、行為として「堂々としすぎている」から。慎ましさがなさすぎる。そしてもう一点は、恥ずかしげもなく堂々とするがゆえ、彼らに「あまり孤独を感じない」から。

スタバにあるのは、孤独ではなく「一人仕事」である。

勉強にしろPC入力にしろ仕事だ、あれは。しかしこの話は(巻末まで)置いておきたい。なぜなら、どのみちスタバも「こどく」を取り扱っているから。

スタバの現状に現代の「道具」を見る。道具主義、すなわちプラグマティズムだ。
20世紀型の、昭和型の喫茶店が持っていた「雰囲気」の外套なんて脱がし、機能だけがある。
都会の隠れ場所としての「薄暗さ」はなりをひそめ(椿屋上島珈琲は多少こっちに振れるが)、市民に課せられた「休息と作業」を要求している。つまり、今世紀ともなると「休息」も一つのまさに社会的ルーチンになっていると感じる。明るい休息、明るい作業だ。

同時に、そこに面白さがあると思う。

どう使おうが構わず、そのイニシャルのなさ(匿名性)が逆説的に、主体性を復活させている。
この最たる例が「ノマド」の感覚だ。彼らはカフェ3.0を泳ぐ。そこには前世紀的「こどく」はない
スマートに次へ向かうのだろうさ。——そう、スタバの彼らは無言で宣言している。


え? なに? あんたは仕事で使わないのかって?


おいおい?! バリバリ使うに決まっているじゃないか、チミィ!
書いたとおりだ。ヤりもするが行為として「慎ましさがなさすぎる」のだ。


このにおいの違いに気付くか気付けないかは、人間形成としてデカい。 わかる?
それにだ。そんな「仕事」至上主義へのカウンターとして、本文がある。


改めて書くが孤独とは、仕事でも勉強でもない瞬間(モーメント)をさす。
その瞬間にこそ「こどく」が横たわっている。
こう書くと、彼らはどう思うのだろうか?
今も昔も、カフェであれ喫茶店であれ「こどく」を抱える装置なのだ。 それでいい。