わが心のBlog

by Hiroki Utsunomiya

F構文の不惑

毎年、自分の誕生日にはブログをエントリーしていて、そこにはテーマがあって、
「少しつっこんだコトを書く」としていた。
普段よりもっと内省的だったり、もっと断定したり、ということだ。 そして、
 
それはソンである
 
ということに同意しつつ書いていた。
こんなこと書いて、だれが得しよう。 オレ? とんでもない
でもこうしてこのブログを訪れてくれる人々に、少しつっこんだコトを今年も書こう。
そんな場合、自分の心をとらえて離さないことを書くべきである。
で、それらはおしなべて、暗い。 当然だ。
ほっとけばあなたも暗くなり外行きの着物を脱ぐだろうよ
あかるい話なんてF構文だ。 不惑っ! しみったれていくぞこのやろう。
 

 

「承認欲求」と「普遍主義」


このキーワードが最近のブーム・・・・・・以上に自分を捉えて離さない。
承認欲求。 こうしてブログを書くこと、Facebookに代表されるSNS、ネットでのあらゆる表現や受理にそれはついて回るし、なにも普通に日常生活において、子供は親の承認を必要とし、友人の、家族の、共同体の承認なしでは人は不安になる。

虚構の世界でも、承認の物語はめちゃくちゃ多いし、身に覚えもある。
だからなんだ?、と言えばそれまでだがともかく、そこに自覚を持とうと考えている。
 
今の自分は「承認欲求」で行動しているのか?
それ以外の行為なのか?


間違っててもよく、この切り分けこそが重要だ。自意識を冷静に見詰められるから。 他者への、または自己への承認なのか、他者へと見せかけて実は自己への承認なのか。承認欲求の比重が多いアと、認められた時点で、しぼむ。 そういう運命にある。

 
このブログだって発表して数時間もすると、もうひっこめたくなるし、文章も気になり出す。かってに。 でも、その「かってさ」には無意識でも理由がある。「承認」さえ超えれば、耐えられない代物かもしれない。 たんにパワー・情熱がなく「飽きた」のかもしれない。
どのみちそこには強さの濃淡がある、ということだ。 この濃度がキモである。
承認に関係なしに「世界に必要かどうか」というバロメーターなのだから。そしてそれは、何らかの「希望」に結びついていると、長続きする、とボクには言える。それこそが、表現になる。
 
 つーかまず、なんで切り分ける必要があんのー?
「重要」とか「キモ」とかキモいって。なんなの?


さて。この「つっこみ」が現代の姿だと考える。ここに「普遍主義」が出てくる。 オレの場合。
重要だと思うのは自分でアリ、キモだと思うのも自分だ。で、なんでそう思うのか? ということ。
ごもっとも。

それは「理想とする何か」普遍的ななにかを求めているから、そう思うわけだ。
その削ぎ落ちた先に理想とする人格が「ある」とすること。理想とする世界が「ある」とすること。 これが、普遍主義だ。この普遍主義に価値を置くから、オレは重要とかキモとか言っている。

しかし、その普遍主義の価値基準は激しくゆらいでいる。
いや、もう、すでに負けている。
いや、普遍主義はとっくに死んだのだ。今はその残り香が世界中に漂っているだけ。
・・・・・・という話ばかり、最近読んでいる。 以下そんな話をする

 
カントが神に致命傷をあたえ
ニーチェが完全に、殺した


なんて美しいたとえだろう。
こう言われる通り、西洋ヨーロッパの哲学はまさに普遍主義の歴史だ。
「理想的な真理」ーーこれがあるにちがいない。
その、神殺しから始まる「真理」探訪の旅が20世紀末まで続いた。 しかし、

 

どうやらそんな真理はないっぽい


と、哲学、数学、物理、あらゆる分野で、絶対的なスペシャルワンはない、っぽいぞ、というドン詰まりの結論に傾きつつあるのが現代だ。それは納得できる。 なぜなら、
 
 
いま、必死に普遍主義を弁護しようとしている
無償広報担当のオレ自身がアジア人(部外)じゃん

普遍主義はエリート主義だった。
オラ、よくわかんねーから、お偉いあんた方、必死に考えておくれ
カントもニーチェも、必死に考えた。 でもそこに、アジア人やアフリカ人を勘定に入れていたか、は別だ。この人種の多様性、あるいは神の多様性を勘案にいれなかったのが、西洋普遍のアキレス腱だった。西洋人が引いたシリアとイラクの国境線、サイクス=ピコ協定ラインは現代でも新しい議題であり続ける。
 
たしかにオリンピックもワールドカップも、No Racism だ。 当然だ、それがヨーロッパの矜持だからだ。(欧州にいけばこの普遍主義にまさに触れる瞬間がアリ、とっても浸みる)
がしかし、その普遍的文化の土壌は、難民受け入れの揺れを見るまでもなく、急速にしぼんでいる。
というか、シリアの難民問題で如実にわかるのは、
 
う、もはや思考停止寸前・・・
この筋の先輩が停止じゃどうもならん


普遍主義も兄妹である「人道主義」も立ちゆかない、それだけの圧倒的な「現実」という重量。
EUはお互い牽制しあい、ハラハラしている。そこには、カント?ニーチェ? ごめんなさいね、Show Me The Money? いや、もう、金でもない。 この難民問題は西洋エリートたちですらの、お手上げ状態を今、見ている。 毎日がギリギリだ。
日本なんてもっとイチコロだ。難民の「な」の字もでない。 ほとんどタブーだ、ワラビスタン。地政学的に遠くてラッキーなだけで、問題それ自体を扱えるだけの、思想の土台さえ用意されていない。

今はネオ相対主義の時代だ。現代哲学はデリダが提唱した脱構築相対主義に移った。
それは、「真理なんてなくてさ、その場その場で正義は変わるモノなんだよね」。
という身もふたもなく古代ギリシャではプラトン以前のプロタゴラスの代まで、後退を余儀なくされている。
で、この(ネオ)相対主義はデューイのプラグマティズム道具主義)とも結びつき、「現実主義」を形作り現状、流行っている。
どちらにせよ、哲学というよりは実学のサイズだ。だからそういうサイズの現実主義が、普遍主義も折れた難民問題にどう答えるか、未知数だ。これが一番強い課題に思う。(もちろん、その場その場で変わるんだろうけどね。相対だから)


ちなみにプラトンが出てきたのでハッとしたことを告げると、古代ギリシャの哲学も、

市民(シチズン)のための哲学で
市民外、つまり奴隷は関係なかった


という泣けるものだったことを突っ込まないといけない。どうりでプラトンの「プラトニック・ラブ」はハイソでゴキゲンであり、アカデミーに理想(イデア)の芳香がするのは当然だった。 よく言われたろ、「もう学校じゃないんだぞ!」
これは奴隷もはびこる実世界に突入することを指すのだ。

 
もろもろ、厳しい。 なにが厳しいか分からんほど、きびしい。
そんな現代を私たちは生きている。(とオレは思う)
現実主義も多くのモノを見落とすだろう。で、それのなにがいけないの? という主義でもある。 こっちがたてば、あっちは立たんよぉ? そういうもんだ、なに言ってんの。現実を見なさいよ。……

昨今、よく出てくる「お花畑」云々、 「ドリーマー VS リアリズム」
これはそっくり、ニーチェ VS デリダ連合 の代理戦争という見方もできる。
で、ニーチェはもう、とっくに負けているんだけどさ。
でもそれは、道具&相対主義に負けたのだろうか? 少なくとも、気の利いた「メソッド」を唱えられないおじいちゃんは、孫にディスられるのだろう。「もう、あんたの話は理想論で、現実味がないんだよ!」そんな時代だ。時代はスーパーフラット。長老を必要としない。おじいさんも底辺に落ちよう
 
現実主義を思うときぼくは、地方の「トリクルダウン(こぼれ落ち)」も思い出す。
旅行者はここを通過する際に、金を落とすはずだーーとする経済施策。トリクルダウン理論
しかし実際はただスルーされるだけだったりする。
そこへの回答は、しれっと忘れ去られる。Googleの社員は、社食ですませてしまうし、Apple社員はバスから降りるとそそくさと帰るだけだろう。 はたまた、成田という土地はどうだっただろうか? 空港が出来たころ、沸いたのだろうか?
 
デリダ&ストロース が理性に致命傷を負わせ
「       」が完全に、殺した


この「      」に入るものはなんだろう。
それは少なくとも、哲学者ではない。と思う。 理想像のない世界へようこそ
承認欲求に基準も制限も「理念」もなくひたすら、近場近場のバトルがあるのみ。だとしたら?

オレはやだねえ。 しみじみと。
しかし神も、超人も死んだ。 とすると、パラダイムシフトせざるを得ない。まあ、結局ずっとこのブログに書いていることであり、自分の作家性ってつまりそういうことなんだよ。




「やだねえ、変わらないとなのかなぁ……やだなぁ」




実は、この逡巡にオレ自身10年の単位を掛けている気がしてならない。
じたばたしてる。 不惑っ!
最後に「Re-think」を考え出した、トリーシャさんを思う。
彼女は切実なリアルから、ドリームを導いた。 オレもがんばろう
 
 
seven1.jpg