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わが心のBlog

by Hiroki Utsunomiya

MJ研究:松茸ピアの克服

「この曲聴くと、気分が墜ちるんだよなぁ・・・」
という曲が誰の身にもあると思う。
ボクの中でその一つは、マイケル(以下敬称略)の「Liberian Girl」だった。
この苦手意識を今一度、今の頭で捉えてみよう。 そんな試みをしてみたい。
 
リベリアン・ガール。 この曲は、超モンスターアルバム「Bad」にある。
でもどこから話せば良いんだ? 皆さん同様、マイケルと自分の関係を紐解くのは容易ではない。
 少し言えば、「Bad」に触れたのは、中学1年(1988)の時だった。
級友ゴーシがわざわざテープにダビングしてくれて、それをすり切れるくらい聴いた。ゴーシはなんと東京ドームのBADツアーにも誘ってくれた、とても足を向けて眠れない友人なんである。

そんな麗しい思い出に彩られ、ボク自身まちがいなく熱狂したイチファンの立場にあるが、ここは冷静に、この曲からMJというスーパースターに「今の気持ちで」近づいてみたい。
 
mj_bad.jpg
 
◎マイケルの「躁鬱」
 
率直に言って、マイケルは「躁鬱(そううつ)」の傾向があると思う。
いや、躁状態鬱状態を、とてもうまく操った天才がマイケル・ジャクソンだったと言えるろう。
いつからその傾向があるかを断定はできないが、間違いなくアルバム「BAD」では既にそうだった。
ぶっちぎり「そう状態」でパンチアウトされる「BAD」「SPEED DAMON」「Smooth criminal」。
いわゆるオモテ面というか、マイケルの娯楽性が大爆発しているのは、言うに及ばずである。
それに対し「凹む」楽曲として、確実に「Liberian Girl」や「I Just Can't Stop Loving You」があるのだ。その曲調の「落ち込み」具合は尋常ではないのである。
 
1.BAD
2.The Way You Make Me Feel
3.Speed Demon
4.Liberian Girl
 
さっそく4曲目で問題は発生。 ここで一気に気分は落ちることになる。
おまけに中一、13歳の身にはあまりにオトナな曲だ。超ゴキゲンになりたいのに、これはつらい。
しかも当時テープである。悶えながらがまんするリベリアン・ガール。いつしか苦手な楽曲となる。
さあ一度聴いてみよう
 

 
リベリアン・ガールの歌詞

はい、みなさんおつかれさま。
苦手ということは、あまり聴いていないということ。 ってことで、聴くとその頃に戻るね。
あらためて、中一には無理だよ、これ。
なにこの、オトナなかんじ? ってかんじ。
さて。 わかりやすく、歌詞つきの動画を紹介しました。
 
「Naku Penda Piya, Naku Taka Piya, Mpenziwe」
 
冒頭。
これは調べると、スワヒリ語とのこと。
「I Love You I Want You , Lover」 となる。 なんてネットって便利なのだろう!
松茸ピヤ、松茸ぴあ、弁図うえー、ではなかったのだ!
 
とにかくオープニングのSEからも、そしてこのスワヒリ語からも、アフリカンの印象を想起する。本当かわからんが、「ピラミッドガール」が元のタイトルだったという情報もあるくらいだ。
(ちなみに、そのピラミッド的思惑は「Remenber The Time」のPVに結実する。)
 
また、歌詞を追っていくと、けっこう苛烈である。
リベリアン。これをまずどう訳すか?が問題である。 辞書通りだと「リベリア人」である。
 
  その「リベリアの女」に恋をしてしまった「彼」は
  永久(とわ)に語りかける、「愛してるよ、君を」、と。
  リベリアの女、君はボクのところにやってきて、ボクの世界をかえたんだ、
  まるで映画のように。
 
何度も語られるのは「愛している」ということ。そして、この「君に世界をかえられた」という点だ。
この「世界をかえられた」を恋と解釈するのが、普通なのだろう。
が、ここを「光明」、自分へ「光が差した」という思想的表現と捉えることも可能ではないか?
苛烈と言ったのは、このこと、「光明」についてなのだ。言い換えると、この「啓蒙」についてだ。
 
しかしボクはこの歌を「啓蒙」的な歌詞と解釈するのに「リベリア人」では説明がつかん、と思った。
リベリアの女性に啓蒙された? よくわからん。
アフリカの物語だけでは説明がどうしてもつかないのだ。
しかし、「リベリア」を「リバティ」、「自由」のモジリ、アナグラムと考えたらどうだろう? リベリアン・ガールではなく、リバティー・ガール、あるいは、リバタリアン・ガールとしてみたら?
 
 
さあ、それでは、もういちど、
こんどは、本家のPVをご覧頂くことにしよう
 

 
リベリアン・ガールの正体
 
冒頭は楽曲の世界観を踏襲するように、アフリカのイメージから映像はスタートする。
しかし、どんどん毛色が変わってくる。 そう、まるで、マイケルの交遊録のようにオールスター展開をしていく。 いかにもマイケルらしいと言える。
しかし勘のいい人なら、ある時点で気付くことになる。
 
「そうか、これ全員、民主党を支持している人たちなんじゃねーの?」、と。
 
ボクは映画監督スピルバーグが登場したときハッとした。(彼は筋金入りの民主党支持者だからね。) むろんボクはアメリカ人でもないしね。 ホントのところはわからない。 でも充分あり得る話だ。
 
そこで、上記の「リバティー・ガール」論が凝固したのだ。
ああ、これでやっと説明がつく、と。この楽曲のもつ「光明」「啓蒙」「思想性」はこのPVに結実しているのではないだろうか? と思い出した。3つの仮説を立ててみることにする。
 
 まずは拡大解釈。 アメリカ思想のプロパガンダ論。
「まるで映画のように」とあるように「アメリカそのもの」を言っているとしてみる。
つまり、リベリアンガールとはリバティガール、「自由の女神」のことである。
その光明を受けよ、と言っているのかもしれない。 時代がまだ、東西冷戦であることを忘れてはいけない。ある意味マイケルは思想プロパガンダに使われている、と言ってそこまで批判のされようもないのである。
 
 ちいさく見積もり、セレブ民主党パーティー論。
ウーピーにアポロ、あり得そうじゃないか。 ポーラ・アブドゥルやトラボルタも「ぽく」ないか? このPVが民主党パーティーそのものであるという推論だ。
有色人種を支持基盤にした民主党と自由政策。 マイケルも支持者だったとしてなんら不思議はない。その政治性をこの楽曲に込め、またクリップも、そのように匂わせたのではないだろうか? この説で極めつけは88年は大統領選挙の年だったってこと。
 
 もっと個人に分け入って、マイケルの「うつ」疑惑。
そのマイケルの「うつ」性は人種問題とも深く関係するのだろう。
なぜ「リベリア」なのだろうか? と戸惑うからだ。謎である。
とにかく彼の抑鬱は、その表現がやたらコード進行に反映するから、こっちも気分が落ちるのだ!
 
 
この楽曲が個人的に苦手だったのはこの①〜③の理由においてなのだろうか?
中一の身分で①と②はありえず、③の「落ちる」感覚はこの楽曲として不変であろう。
人によっては「美しいメロディ」ということだが、アラフォーな今聴いても充分「落ちた」のだ。
未だボクにとって難しい曲であることに、どうやら変わりはないようだ。
 
 
◎さいごに。マイケルを代表する曲
 
マイケルは躁鬱を操った天才だ、と冒頭に書いた。
その天才を証明する曲も、このアルバム「BAD」には入っている。
それが、「Man In The Mirror」 である。 さいごにこの曲に少しだけ触れたい。
この曲はじつは、マイケルのオリジナルではない。 サイーダ・ギャレットとグレン・バラードの共作である。
 
しかし、もっとも、マイケルの魂に近づいた曲と言えるのではないだろうか?
現にそれ以降コンサートのラストは必ず、この曲で締められるほど、彼にとって重要な曲となった。
 
ボクはこう思うのだ。
この曲はそれこそ、マイケルが自身の中の「躁鬱」と闘った曲ではなかったか、と。
聴いてみればわかることだが、これは娯楽チックな「そう状態」なシングルカット楽曲でも、「Liberian Girl」「I Just Can't Stop Loving You」のような「うつ状態」な楽曲とも違う。まさに中道をいく、むしろコード進行的には「うつ」から這い上がろうとしている、「祈り」なのである。
真のファイトソングであり、だからこそ心を打つのだ。
最後にこの歌のさびをのせて終わろうと思う。
 
 

 
I'm Starting With the Man In the Mirror I'm asking him to change his ways
And No Message could have been any Clearer If you wanna make the World a better place
Take a look at yourself, and Then Make a Change.

始めてみよう、鏡の中の男といっしょに
訊いてみるんだこの男に、なにを変えたいんだって
これ以上はっきりしたメッセージはありっこないさ
もしきみが世界をより良い場所にしたかったら
きみ自身を観て、そして  それから、きみが変わるんだ。