わが心のBlog

by Hiroki Utsunomiya

消失

ナイロン100℃の舞台「消失」。
再演です。初演は、11年前のこの季節でした。
 
11年前。の話をまずします。
ボクはありがたくも友人の推薦を請け1ヶ月稽古場にお邪魔し、ケラさんをはじめ出演者、舞台が出現する様を撮影しました。のちにそれは「the Appearance」というメイキングドキュメンタリーとして公演DVDの特典になりました。

と、平文で書くと訳もないです。

が、当時とても大変だったことを、昨日のことのように覚えています。
この機会に少しこのはなしを続けたいのですが、メイキングの撮影自体、当然のようにタフでした。しかしその「旅」は、ドキュメンタリーの完成に向けた「編集」作業の方がずっと困難だったのです。
来る日も来る日も切ったり貼ったり試して崩すのは、舞台のみならず、映像の編集作業もそうなわけです。映像作家なんだから本懐だろう? と思いつつも、その作業は仕事と言うには余りに孤独でした。
孤独と言うことはそれだけ「仕事」を飛び越え、自分の「作品」に近づいてしまうことを意味します。人知れずその「内部」と戦ってENDマークを打った手前、どうしても生々しく憶えているわけです。
 
ーーなのでボク個人としても、思い出深い公演がこの、「消失」でした。
 
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それがオリジナルキャストで再演されるということで9日、本多劇場に観に行きました。
ちょっとプライベートな、旅のつづきとして。
しかし11年? 個人的には、その年月はあっという間すぎて、引く思いです。

the disappearance.jpg

劇場に着いてまず不気味に思ったのはそのセットのあまりの「変わらなさ」でした。
「忠実」と言えるほど、11年前と変わらない。再演なんだから当然か。
紀伊國屋から本多劇場に小屋は遷っているわけで、多少小振りとは思いつつも。
とにかくこの「変わらなさ」が不気味でした。開演前のボクの脳裏をこんな強迫観念が襲います。

 
あの兄弟は10年以上ずっと、「これ」を繰り返していたのではないだろうか
あるいは11年も本当は経っておらず、実は全てつい最近のことなのではないか。

 
考えすぎです。 んなわけない。
ただ再演で装置としてセットが組まれ、そこにあるだけ。
さて。そんな自分の思いつきをよそに幕は上がります。
舞台にはクリスマスツリーを飾る、チャズとスタンリーがいます。


いや、・・きっとそうだ!
あの兄弟は10年以上ずっと、「これ」を繰り返していたのだ!
あるいは11年も本当は経ってなくて、実は今まさに行われている!


この感覚はどう言えばいいでしょうか。
極上のサイコスリラーです。
この年月のミスマッチと舞台のリンクは贅沢すぎました。ここに尽きると思うのです。
いったいどういうことでしょうかーー
 
チャズ・フォルティ(いや、作・演出のKERAさんと言うべきか)は瞬間パックしたいのです。瞬間パックしたくてどうしようもないのだ、この瞬間を。良き思い出を。
しかし舞台という媒体自体がそのことに不向きです。掴もうとしても失う、時間そのものだから。しかもこの舞台はあろうことか、再演なのです。
ここにモンスター級の執念がすでに走っているのです。
 
掴もうとしても失うものを、再演するーー
そのことを贅沢(あるいは狂気)と言わずなんだろうか?

いやが応にも成長した、成長してしまった俳優たちこそが、この主題として効果的すぎるのです。ボクは、開演前の舞台に、冒頭の兄弟に、それを感じてしまったのです。



無粋なことは言いたくありません。
11年前にも感じたとおりこの舞台は傑作です。(さっそく言ってるし)
改めて戯曲としての完成度の高さに舌を巻きました。ケラさんはこのタイトロープを「当時」正確に渡りきったわけですがこのこと自体が、なによりも驚異的です。みのすけさん、大倉さん、三宅さん、松永さん、犬山さん、そして八嶋さん。(それに池谷のぶえさん(声))
俳優のみなさんの素晴らしさも、述べたところでどうなるわけでもありませんが。
とくにハッとしたのは、チャズ・フォルティの纏っている空気の濃さでした。他人へのバリアーの張り方にゾクッとし、名演と呼ぶに相応しい、幾重にも重ねたチャズがそこに居ます。
 
豊かで、とてもいい再演でした。
アレ以来お会いできていませんが、初演に、ナニ部でもなく関わった者としてーー。
さいごに、俳優のみなさんにボクからも言葉を贈りたいと思います
 
 

この「消失」を新鮮に毎日演じ続けることは、ツラい時もあるかもしれませんが
どうか頑張って下さい。傑作なのだからーーまたお逢いできる日をねがって

前回の、なぞの映像作家より

 

 
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