わが心のBlog

by Hiroki Utsunomiya

「ダライ・ラマ14世」を観た

豊潤で、とても良い映画を見た。
それがドキュメンタリー「ダライ・ラマ14世」(2014)だ。渋谷ユーロスペースにて。
 
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(C) Buenos film / Taikan USUI (C) Buenos film
 
 
 
政治面で語られることの多いチベットチベット仏教宗主ダライ・ラマ。(以下、全文敬称略)
中国との関係などその政治的な玄関をどうしても経由しつつも、そこに深入りしない。
作り手たちは、そこじゃないと注意深く迂回する、しかし一点のみ、政治的な疑問符をのぞいて。
 
 
  中国にたいする苦渋の決断として
「現実的な譲歩」をしてまで
 ダライ・ラマが守りたかったモノ
 いったいなんなのか?
 
 
この問いで、この映画は本格的に幕をあける、と言っていい。
そして幕があいたとたん、観客であるボクは涙することになる。
それは日本に出稼ぎにきているチベット若い女性たちと、ダライ・ラマの交流で。
 
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「どんなに辛いことがあっても、
 自分を卑下してはいけない。
 誇りをわすれず、頑張るんだ」
 
 
これらの励ましが、彼らにしかわからない「言語」(おそらくチベット語)でダライ・ラマから語られる。この励ましにおいて、信心深い彼らはいよいよ泣き崩れ決壊する。
異国の地の彼らにとってそれが、どれだけ「ありがたい」言葉だろうか?
どれだけ救われるだろうか?
その光景(の字幕)をみて、グッとこない方がおかしいし、ここにこの映画の本質・ヘソがある。
 
つまり私たちは何人であろうと、言語であり、アイデンティティ なのだ。
語弊を恐れずに言えば「迫害」「難民」「マイノリティ」であることもまた、ひとつの「旅」だ。

そしてその旅は全世界共通の問題である。
だって考えてもみて欲しい。
もし日本がなくなって、日本民族がちりちりバラバラに漂流したとしたら?
自分を律するものはなんだ?

そこで、アイデンティティーを守るものは、文化と言語でしかないだろう。
日本語であり日本文化だろう。
それはユダヤでもパレスチナでもチベットでもアメリカでもどこでも変わらない、と気付けるはずだ。
ひとたび難民あるいは迫害を受ける身となれば、どこでも変わらない。

ここにこの映画のリアルがある。

皮肉にもチベット人たちも失い自分たちに気付いた。それはダライ・ラマ本人が語っている。
また「言語」ゆえの閉塞感も、同時に看破している点があまりにも見事だ。

 
 
◎質問と解答、問答
これは「言語」についての映画。
だから「言語化」という作業にこだわっている。
この映画はダライ・ラマに訊きたい日本人の質問を発表する。彼はどう答える(言語化する)か?

が、これは質問自体が答えのようにも写る構造になっているんだ。
なぜなら「質問」そのものに、そのヒトの個性ひいてはその国の民度が嫌でもでてしまうからだ。
 
 
なぜ、勉強するのか?
 
 
この問いへの回答(言語化)が、劇中の日本人はおそろしく幼稚なのだが、それは映画をみて確認して欲しい。同様にダライ・ラマへの質問も(制作者たちは注意深く)日本人の特徴をあぶりだす。
それは自分「外」に答えを求める「中華思想」そのままに思い、民族的な持病を写す。
むろん、的を射るような普遍的で切実な質問も多い。記憶が確かなら(たぶんあれは)故・川村カオリも生前の質問者としてこの映画に登場する。その問答が残酷にして、美しい。
 
対比するように衝撃的だったのが、チベット寺院での手を打ちながら問う「問答」という修行。
「一つの問題をどれだけ細分化できるか(ッパン)」などと手を打ち、修行僧同士が答えあう。
なんてレベルの高さだ、と思った。
そしてその光景は単純に、羨ましすぎた。いいなぁ・・。くりかえすが「質問」それ自体に智惠と生き方があらわれる。
 

 
チベット仏教の真髄
ダライ・ラマが守るもの。
それは言語と、もう一つがチベット仏教それ自体だ、とボクは感じた。
この映画はボクのようなまったくその中身を知らなかった者にも、チベット仏教を教えてくれる。そして、そのステートメントを体感するのに、ダライ・ラマのこのひと言で充分な気もしてくるのだ。
 

 何のために
仏教を学ぶかが大切であり
仏教を知らない仏教徒
あってはならない
 
 
魔法ではない。般若心経を唱えるだけではダメだ。
その意味を知らなければ、とダライ・ラマは言う。
これほどクリティカルな批評をしらないし、チベットの奥地で守られるチベット密教の本質がここにある。その心臓部であり最深部、ラダック。
この映画のクライマックスはラダックでの巡礼だ。この美しさは表現できない。
 
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◎プライベートフィルムとして
この映画の感想が長くなるのも無理はなく、何を書いても足りず書けば書くほど芯をまるで喰わない。実に多くの要素がこの映画にはある。
もう一つ、感想が長くなる要因がある。
それは企画者であり撮影をしたのが、級友の薄井一議だからだ。
彼とは中学・高校の同窓。
で、ランチをともにしてた仲だもの。
 
この映画のモノローグは、彼・ウスイの視点で語られている。
その語りは(別に級友であることを差し引いても、)距離感として正しく思う。
また、これはきわめてプライベートなロードムービーだ。
級友として、だからなのだろうと思う。よりナマに感じてしまった、二つの「音」があった。その音とは、カメラを持つ者の息づかいだ。それは、この旅を目撃し歩ききった者の息づかいだった。
 
ダライ・ラマとのファーストコンタクトでの、大きくつづく鼻息。
そして、ラダックでのうめき声。
それらを、ボクは忘れることが出来ないだろう。
 
 
 
最後に。
これはロードショーで見て欲しい作品だと思った。
関東のヒトは、渋谷ユーロスペースがいい。なぜなら映画を見終わった後、パーンと渋谷の街に出されるから。それこそ「無常」を感じるに最良だ。