わが心のBlog

by Hiroki Utsunomiya

結局、クオリアなんだよな

クオリア
 主観的意識体験。観測できない現象的意識。
 
赤いりんごを観て、
 
A「これって、赤だよね?」
B「うん、赤い」
A「いやいや、わかってる? ホント赤いよな!」
B「うん、ホント、赤い!」
A「いや、だからよ、赤いって!!!」
B「おう! 赤いな!」
 
たぶん同じ「赤」を観ても、その「感動」はヒトぞれぞれ違う。
で、もっと大事な認識は、

「感動」すらしなくてもやりとりは成り立つ

ということだ。
この場合、AがBより感動している、とは全くもって言えない。し、むしろ、あやしい。
「オレはょ、感動した!」
と、感動せずにヒトは言うことが出来る。自動的に、言うこともできる。もっとフェイキーに、「もうだめだ、だって感動しないもん」と無感動に、言うこともできる。


これらはすべて自分のクオリアを通していない、ということ。
クオリアがすべてである。


クオリアを通さないアート、
プロダクト、日常会話、日常態度……、その全部は味気なく、つまらんものだ。
クオリアを通しているからこそ、つまらない! それもあるだろう。(クオリア通して、その程度か!!と。)
どの程度を決めるのも、また脳にインプットされた意識だが。
 
 
子「ママ! 見て! 赤いよ!」
母「んーそうねー あかーいねー」
 
 
成長するという事は、クオリアを通す回数が減っていく、ことをさすんだろう。
しかし、そうなるとヒトは、意識的にクオリアを求めだす。
まだ触れてない体験、あるいは、自分の意識にもっともフィットする行為を探求するわけだ。
あるいは、クオリアを拒絶しだす。
どちらにしても、意識的にその「ありか」に気付かなければいけない。
 
通したか通してないか気付いていない、自動的で無批判な行為がボクは大キライだ。
役者を見ていても「ちゃんとクオリア通せや」と思う。
たとえばシゴトで自動的な企画を求められても。
自分が面白がれる、否、もしかしたらクオリアが動くかもしれない企画、しか書きたくないよ。で、このブログだって、できるだけ意識と近いところで、書きたい。
ぜんぶ、ホントのぜんぶとはちがうけど、ぜんぶそんなカンジだ。
 
クオリアが求められている。
で、クオリアとは「質」なのだ。
 
いや、クオリアが質をうむのだ。
クオリアの数だけ「質」に近づけるのだ。
今日電車の中で無感動(のように見える)にスマホを眺める子供と母を見て、思った。