わが心のBlog

by Hiroki Utsunomiya

アクト・オブ・キリング 奇跡の映画

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ソンナノ ヒジョーシキダヨォ! ユルセナイヨォ!」 By日本の常識 世界の非常識
 
5月1日映画の日。 「アクト・オブ・キリング」を観た。 HP
先に結論を言うと、映画史にのこる傑作です。 だから映画館で観て欲しい作品です。
多くの人が衝撃と絶賛を表明していますが、ボクもです。 ここまでズシリとくる感動はめったにありません。
 
 
奇跡的なドキュメンタリー
って使い古された文句に違いありませんが、その意味を真剣に考えるのに充分なパワーを持っています。 どれだけ「奇跡的」か。
それはまず、この映画の完成自体が奇跡です。 超ウルトラD難度です。
スタッフロールのほとんどが「ANONYMOUS」。
でも彼らは手伝ったのです。なんという勇気でしょう。
 
そして被写体の奇跡。 この物語のストーリーテラー自体が奇跡です。
この映画に主人公がいること、居ちゃうこと自体が奇跡です。 それも奥崎謙三以来、というほど魅力的な。(監督ノートによると、41人目の対象者とのこと。 41回目に訪れた奇跡から始まる物語、とも言えます)
さらに、65年にインドネシアで起こった事件から50年の歳月が流れているにもかかわらず、ほとんど世界的に知られていないキリング(虐殺)があること、またそれを許容している背景が、すなわち奇跡なのです。
 
お気づきのとおり、ここで言う「奇跡」とは「非常識」と紙一重に違いありません。
しかしこの映画は、常識—非常識などと仕分けできるものでもないのです。
 
 
「あそう。ごめん、そういうのパス。虐殺? それだけでだめ、いい、いいよ」
 
 
ちょっと待って頂きたい。たしかにその映画的「奇跡」の前にはまず、現実の「悲劇」が確実にあります。多くの勇気で支えられたこの映画ですら、死者を蘇らせることは100万分の1の可能性もありません。
でも人間の歴史自体が、悲劇と物語で作られていませんか? それはキリストの磔刑であれ、科学の発展であれ、お笑いやスポーツであれ、ね。この物語の主人公も、アメリカ映画が大好きな街によく居そうなチンピラだっただけなのです。 大昔は。
 
この映画が歴史的傑作なのは、映画の「奇跡」が現実の「悲劇」にもっとも近づいた瞬間がラストにあるからなのです。飽くまでアト追いである「物語」が真実にタッチする瞬間が本当にあるからなのです。
繰り返しますが、死者を蘇らせることは100万分の1の可能性もありません。
でもこの物語はそれをまるごと含めて、「人間とはなにか」まで迫っています。
 
こういうの観に行かない方に告げます。 わかりますとも。でもだからこそ映画館で観ては、と言いたい。きっとDVDでは借りないでしょう。
わかります。だからこのさいみんなで観てしまおう、と言いたいです。ダマされたと思って。 少なくとも、観て損する映画ではないですから。 ふたつとない映画です。
 
 
 
 

追伸:専門的な追記です。 ファベーラの時にも書きましたが、ドキュメンタリーは、業(カルマ)のメディア。とにかく業に染まります。
この映画も強烈に悪魔的発想で、そこに乗せられる対象者という構図もある。おそらく40人目までは対話集でこの作品を仕上げようとしていたはずだ。しかし、奇跡が始まったのです。
 
最後に加えたい奇跡は、「彼」と仲間が素晴らしく単純だったということです。これほどの皮肉もそうはない。ボクは根がロマンティックなので、被写体と国民の潜在意識がこの映画を導いたのだ、としか思えません。
 
黒澤明の言葉で「悪魔のように大胆に。天使のように繊細に」という警句があります。しかしこの下の句の「天使の繊細さ」が備わっているのも、本作。
最後に注がれるのはヤな目線ではない。自ら行為を再現(アクト)することを作者は思いつきます。 それが次第にドラマセラピーとなってゆく。
しかし同時にそのドラマで卒倒する女性も登場します。 ESの実験とも通じ、演技の呪術性が持つ表裏から目を背けてはいません。また演技(アクト)は仮面です。「反共」という仮面。そんな構造もあるのです。ひいては社会の虚構、日常の仮面性。
ココまで書くと白けますか? でも大切な事にまみれています。
ナチスのアイヒマンとの違いをこの映画のラストは掲げます。 観客の感情がそのまま行為として・・・。この映画史にのこる最重量級のラストがあるからこそ、普遍的命題として受け入れられたのです。これを書いていて「シーネマー!」と叫ぶ「殺人に関する短いフィルム」のラストをふと思い出した。
 
 
・・・。 ん? 「ありふれた事件」かも・・・。