わが心のBlog

by Hiroki Utsunomiya

祇園祭をみる

京都祇園祭をはじめて観ました。


16日の夜に上京し宵山という前夜祭と、17日の山鉾巡行を見学。
まあ両親が「住みたい街に一度住もう」キャンペーンで京都に居るので、早いお盆みたいなものですが。 それで、祇園祭を観にいったのです。

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上の写真はオフィシャルHPから。

はじめて観た「祇園祭」の感想&余談を以下に書きます。



正直に感想を言うと「これはたいへんだ」ということです。
毎年です。
毎年33基の山車がでて一ヶ月に渡る祭事がある。

これはフツウにきついなぁ、というのが率直な感想です。 おそらく開催側に休みはない。今年の祭事が終わったらもう休みなく来年の準備でしょう。 ボクはそういうところに目がいってしまった。
母の知り合いの、京都在住の方と宵山(前夜祭)で合流したのですが、聞くと、


「めったに(毎年)こない」


とのことでした。
現地のヒトは、ある意味現地だけあって、毎年お祭りに参加するわけではない。
で、そのことはメインの「山鉾巡行」に接するとよく判るものがありました。 オノボリの自分でさえ

「うん、観た!」

でおしまいにしそうな、そんな印象をもったからです。 山鉾巡行は一定した伝統の様式美であり、毎年観るものではないと感じてしまったわけです。 だからこそ、「これはたいへんだ」という想いをより一層強く持ったのでした。




★★★★★★★




さて。 これからが実は本題であり、
ながーーぃ余談です。 覚悟あれ。




ボクが祇園祭を観る上で楽しみにしていたのは、とあるミステリーに対する手応えがあるかどうか、でした。そのミステリーとは古代のミステリーです。知ってるヒトは知ってる、ミステリー。 それは、



ギオン祇園)とはZION(シオン)がなまったものではないか?



という仮説のことです。 祇園祭とはシオン祭ではないか?、という説が日本の古代ミステリーにはあるのです。 今も存続しているのかは調べていませんが、古代イスラエルでは7月17日はシオン祭だったようです。 祇園祭も7月17日がメインイベントの山鉾巡行で、決して週末にズラすことなどありません。この日とかたくなに決められています。

シオン祭は大洪水が終わり新たな世界の幕開けを祝う祭で、大洪水を渡るノアの箱舟を祝祭した。 面白いことに、祇園祭にも船の形の山車「船鉾(ふねほこ)」と復活した「大船鉾」がありました。

またシオンとは山の名前です。ノアの箱舟アララト山に到着しますが、「山」は大事な要素です。 祇園祭でも山車には「山」と呼ばれる山車があり、「鉾」という山車との2セットで成立しています。
で、山車と書いて「ダシ」って読むのはそもそも変ですよね? この辺りも色んな考察がネットにはわんさかあります。それと、インディジョーンズを観れば分かりますが(失われた)アークって祭に出る御輿そっくりだったりもします。 興味ある人は「祇園 シオン」でググるとヨタな説ふくめいっぱい出てきますので、ぜひ!





さて。ここからがボクの飛躍であり、本格です。
それは、神社とはなにか? という古代への飛躍。



そもそも神社って一体なんだろうか。



祇園祭の主催は八坂神社です。
八坂神社という名称は神仏分離令による明治以降のモノで、もともとは「祇園神社」だったようです。
で、その祭神(仏教でいう本尊)はスサノオノミコト。 出たぞ!スサノオノミコト
スサノオノミコトと聞くともう、いにしえの、古い、日本に太古から居る神様って印象ありませんか?


でもこの神様がはじめて出てくるのは「古事記」(712年)です。


712年が最初の登場。 8世紀の代物です。
ならびにその8年後に編纂された「日本書紀」(720年)なのです。 たいていのいにしえの神様が古事記」「日本書紀」発なのです。 ということはそもそも、




神社の成立は712年を下らないのではないか?




というのがボクの推理です。 調べてないので断言できませんが、この年より古い神社は日本にはないのではないか、と踏んでいます。 あったとしても、とある帰化氏族を祭るものしかないのではないか?、とね。

飛躍を続けます。 では古事記を編纂したのは誰でしょうか?
稗田阿礼(ひえだのあれい)が中心人物とされています。 なんてイイカゲンな名前でしょうか! Wikipediaによると

異説

近年、梅原猛が、『古事記』の大胆で無遠慮な書き方や年齢などから、稗田阿礼藤原不比等の別名ではないかとの説を唱えている。また、阿礼を中臣磐余の孫とする系図もある[2]


でた出た! 藤原クラブモノナシ! 藤原家!
この日本のバイブルを編纂したのが、藤原不比等だとする梅原猛の「飛躍」は面白く、また大胆です。 同時に、ボクなら「ありうる」と思ってしまいます。(年齢的な誤差はあるにせよ。)

古事記の編纂に時の権力者・藤原氏が噛んでいたことはまず、間違いないはずです。
そんな藤原不比等は初代・藤原鎌足の息子です。 以降、中央を実効支配していく藤原家。 その初代・鎌足は一代で成り上がった、大化の改新のチンピラでした。
そのチンピラのバックボーンに太秦を本拠とする秦氏がいた、という説は有力です。秦河勝です。
秦氏は「日本書記」によれば3世紀末に百済より渡った帰化氏族とされています。(6世紀上陸説も。)
秦河勝はあの聖徳太子(←注:実はいたかどうか定かではない)の側近だった、かなりの資本家です。 この秦氏が実に興味深い豪族・キャピタルなのです。



え? なんでリッチなキャピタルだったかって?


シルクですよ。
シルクとその技術を日本に持ち込んだのが秦氏とされています。まさにシルクロード


日本全国無数にある八幡神社は「ヤ・ハタ」神社。 


秦氏氏神としています。 古事記、そのわずか8年後の日本書紀
その影に秦氏の肝いりがあるとしたら、どうでしょうか?  ではなぜ肝を入れる必要があったか?
さてここでふたたび。 秦(河勝)氏についてのWikiの抜粋を転載します。

景教との関係

佐伯好郎は1908年(明治41年)1月、『地理歴史 百号』(主宰 喜田貞吉)収載論文「太秦(禹豆麻佐)を論ず」において秦氏景教ネストリウス派キリスト教)を信仰するユダヤ人一族であったとする説を発表した。
秦一族が渡来する6世紀以前にすでにに東方キリスト教の「景教」が伝わっており、その寺院はと呼ばれていたためである。ただしこれは学会の通説とはなっていない。しかし、平安の都市が碁盤の目、つまり十字架のような十字路になっており、そのために景教と関係があるのではないか、と言われている。
ローマは大秦と呼ばれている。また、秦の始皇帝の父親が碧眼であったと言われており、中東から移住してきたという説も存在し、現イラクやイラン(古代ペルシャ)、アラム地方、エラム地方にはゾロアスター教などユダヤ教キリスト教の前身となる宗教が存在しており、古代のユダヤ人も住んでいた。(バビロニア)参照。
ペルシャ、唐、日本の間ではシルクロードを通じて交易や人の移動があったと考えられるので、このような説が浮上してくる所以である。



この明治、佐伯氏「秦=ユダヤ人」説がのちに日ユ同祖論に発展しますが、ボクはそこに与しません
なぜなら島国の日本人の「すべて」がユダヤの末裔なんて、愚かすぎる妄想であり、即ち選民主義にダイレクトに結びつくからです。
が、秦氏本体が景教ならびにユダヤ教影響下にあった帰化氏族であったことは間違いないだろうと想います。彼らは景教だ。その状況証拠が、ギオン祭であり、祭という祭に登場する「御輿」ではないか?、ということなのです。また、京都には太秦(うずまさ)があります。「太い秦」と書く。京都は秦氏の中心都市なのです。



そろそろ、ボクの仮説をまとめましょう。


この国には神話がなかった
そこに「自分好みの神話」を作る隙をみた宗教的渡来キャピタルの存在があったとしたら?
そのためには権力をつかむ必要があった。
大化の改新とはまさにその闘争、宗教戦争だったのではないか?ーー

藤原鎌足不比等・藤原家を傀儡に、
50年越しの一大バイブル事業をおこなう豪族、秦氏の姿ーー。
ついに完成するこの国のバイブル、古事記
その神々を祭る、神社という存在
ゆえに神社とはまさに「教会」であり、
その豪族が慣れ親しんだ世界観の創出だったーー。



わるくない仮説ではないですか?
ボクの飛躍のさいごは、神社の原理・発祥は秦氏の布教活動にある、という太古への推論なのです。



そもそも「神社」の誕生を調べるには、秦氏自体を調べるべきではないか?




という仮説をもっておえたいのです。
もちろん八坂神社にも祇園神社にも秦氏の「ハ」の字も出てきません(ホントは出てくるんだけど)。 が、あくまで原理主義的な仮説なのです。無病息災のさらにウラに、なにがあるのか?、ということ。


むろん、千年以上の土着・加工によってその土地土地の神社&祭は豊かに形成されています。 その多様さをボクも疑いませんし、昔のハナシすぎて、誰も確信できず、また実害もない太古の謎です。


とにかく古事記発はあやしく、また「神社」そのもの自体が興味深い、とボクはおもうのです。 ここで一句、できました。 読み進めてくれてありがとうございました。





いにしえの シルクロードと 祇園かな      毅覺











重要な後記。(2018夏)

▼「藤原鎌足大化の改新のチンピラ」
これは言い過ぎかもしれない。中央での任務は「祭祀」だ。が、分かってないことが多いのも事実。

史実として、まず藤原鎌足大化の改新前は中臣鎌足、ですね(歴史教科書の時間)。で「中臣氏」というのは、忌部氏(インベ氏=出雲系の神事祭事、宮殿造営などの土建・宗教集団。のちに京都の中臣氏に押される)とともに神事・祭祀をつかさどった中央豪族だ。そして大化の改新後、中臣鎌足勝ち組として藤原の姓を承けたあと、藤原家と中臣氏は分派し、神事を司る系譜はそのまま「中臣」性を名乗ったようだ。なお「藤原」家は鎌倉時代以降、公家の「近衛・三条・九条」と家名を称するようになったのだった。
こうして更新すると、秦氏景教・資本家で後見人)のみならず、中臣氏(神事・祭祀)を研究すれば神道の成り立ちが見えてくるかもしれない。

そして神道・神社にも陰影がある。それは、今でも。

艶やかで煌びやかな伊勢神宮と、やや古く暗さを帯びる出雲大社では、具合が違うからだ。そこには中臣氏に負けていった忌部氏(出雲系)など、それらの因縁が密接に絡み合っていることだろう。
大化の改新とは本当に国の覇権を賭けた宗教戦争だったはずなのである。そこで負けゆく蘇我氏など他の豪族(と言う名の、ある意味、違う宗教集団)も鎮魂せずにはこの時代、安泰もなかった。ゆえに、由緒ある神社にも陰影があるのではないか。
諏訪出雲も、どこか暗いのだ。神社の歴史で一番古いくせに、だ。 おそらくは呪術をもってして呪術を鎮めたのだ——。かくして、神社・神道と言っても一筋縄ではない。

あーもう、古代ミステリーは面白すぎてとまらん!
とにかく本文のとおりだ。
徹底的に秦氏を調べること。まずはこれなのだ。