わが心のBlog

by Hiroki Utsunomiya

「ザ・マスター」はイイ映画

ポール・トーマス・アンダーソンの「ザ・マスター」を金曜日に観た。
封切り日に映画を観たのはとても久しぶりのことだった。観た映画すべての感想をこのブログに乗せているわけでもないけど、この「ザ・マスター」も悩ましい。この映画の感想をのべて一体どうしたいのか?、という所がある。

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解析したり、良さを述べたり、わるさを指摘したり、でもそれがなんだろう?
なんてたまに思う。PTAの「ザ・マスター」も良さがあり、物足りないところがあり、不明なところもあったりするが、そんなのはどの映画にもあると思う。


イイ映画なのです。
イイ映画だなぁ、ってことで充分なのです。


イイ映画を観るとチカラがみなぎってくる。一つのことに熱中することの素晴らしさがどの「イイ映画」にも備わっているから。そしてイイ映画とはきわめてプライベートなものでもある。

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少しだけ、メモ程度に残せば、これは50年代の話で「生まれ変わり」についてもうっすら触れている映画。クラウドアトラス直後なので「また生まれ変わりかぃ!」とは思った。P・シーモアホフマンが施術する「プロセッシング」は俳優の間では非常にポピュラーなものだと思う。このやり方はまさにメソッドだし、コミットメントだから。

人生において逢うはずのなかった類の人物ホアキンフェニックスはそのメソッドを受け電撃が走る。こうして言わば同じ言語同士の仲良し集団に「異物」が入る。そこを、その価値を、監督は見つめていく。
この二人の愛憎を含む友情・師弟関係。その質感は「ブギーナイツ」のレイノルズとマーキーマークのそれに似て濃厚に展開する。異物同士の対決は前作「ゼアフィルビーブラッド」に似てなくもないが、それは悲劇ではない。
物語は「言語の違う人間をなんとか取り込もう」という、不健康な方向へ行くことを拒みながら、クラシックな身なりを保ち「男臭さ」を死守している。描くことがあったのではないか?、というなんとなくの空白もあるし、ラスト近辺では監督の方が役にやや熱を上げすぎてもいるから、観客のボクがグッとくることは不思議となかった。
——でも、それのなにがいけない?

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イイ映画だと思う。力強く、イイ映画だ。