先週までのお仕事で、オーケストラ演奏のバックに流れる映像を構成・編集していました。
そのオーケストラはハリウッドの映画音楽を奏でる楽団。その日本公演の一環でした。
アラビアのロレンスやスーパーマン、ロッキー、ミッションインポッシブルなど名画を彩った名曲の数々。そんなサウンドトラックをクオリティの高いオーケストラが奏でる。贅沢な公演でした。
当然ながら映画は総合芸術であり、名画に名曲はつきもの。映画と音楽は切っても切れない。
ジョン・ウィリアムズやエンニオ・モリコーネがつくる楽曲群のように、曲を聴いただけで一気にもってかれるスコアが、世の中には幾多もある。
「砂の器」を監督した野村芳太郎はその製作ノートの一行目に「この映画は一にも二にも音楽である。音楽の成功無くしてこの映画の成功はない」と書いているくらいだ。
名画のみならずB級映画の名曲もボクは大好き。結局サントラに対して相当なこだわりがあります。
そんなだから、うってつけの愉しいお仕事でした。
お題の中に「風と共に去りぬ」と「マイフェアレディ」がありました。
版権の関係で「風と共に去りぬ」はヴィヴィアン・リーのトリビュート。「マイフェアレディ」はオードリーのトリビュート映像でいこう、ということになりました。そこでこの二人の女優のオフショットを繋げていたりしたんですが・・。
二人ともイギリス人女優なんだなぁ。
ということに気付きました。(オードリーはオランダで育ちますがイギリス人をパパに持ちます)
ヴィヴィアン・リーが「風と共に去りぬ」の主演が決まった時、大ブーイングがあったと聞きます。
アメリカを代表するこの映画の「主演がイギリス人女優とはなにごとだ!」と非難囂々だった。
しかしあの独特な鼻っぱしの強さはまさにヴィヴィアン・リーならではの強烈な魅力。
そこにクラークゲーブルというマッチ感たるや。そんな二人の強い「個」をもってしても「時代」という大波に呑まれてゆくのだ、というこの映画の主題は今でも普遍性を感じずにはいられません。
編集中も「ちょっと!もっと大写しよ!」と彼女に言われているようで、どんどんアップになった。笑
そんな情熱や野心と言う言葉がしっくりくるヴィヴィアンに対して、オードリーヘップバーンはどうでしょうか。
それはもう、可憐。この世に舞い降りた妖精というような言葉だと思います。
ボクは今回編集するまで。
そこまでオードリー大好きっ子ではなかったのですが、ちょっと変わりました。
ドン引きするほどコケティッシュでキュートな画像を重ねるにつれ
「ちょっとこれは規格外だな」
と。
変な表現ですが、こんなに素敵なヒトが鬼籍に納まっているんだから、死んでも大丈夫だなー、と。
それほど批評のしようのない強靱な「美」を感じたのです。ワイルダーならどう言うんだろう?
二人ともそうだが、とくにオードリーに「戦争」を直に感じるのです。
そのバイアスが、美によりをかけているのです。ウラに秘められたサウダージと言ってもいい。
暗い、戦争の時代を越えて咲いた華だからこそ、50年代の人々は彼女に魅了されたのではないか?
欧米の一人一人の庶民に流れる通念が、有機的に彼女の美を支えていた気がしてならないのです。
編集してその想いが強くなったのでした。このバイアスを解くのは今として難しいと思うのです。
この二人の女優を輩出したことが、もしかしたら英国の誇りの一つになっているかもしれません。