わが心のBlog

by Hiroki Utsunomiya

説き伏せるべき敵

以前、半年くらい前かな。
当時の(今もか)野田首相を評したひと言に非常に納得したのを憶えている。


野田首相は毎日のように、国民にケンカを売っている」 by 読みヒト知らず


たしかに。
ビジネスや外交、つまり社会形成のシーンで、不利益な対象者を「丸め込む」「だし抜く」ために詭弁を使う。ユーザーを説き伏せるべき、潜在的な「敵」とみなす行動や言動は、首相にかぎらず、世に溢れている。そこにちらつくのはいつだって「カネ」であり、利益だ。

ビジネスマインドで国を治めてはならない内田樹氏も言っているが、ビジネスの舞台であれそういった、ユーザーを「敵」とみなして対処するビジネスモデルはもはや機能していない、とボクは感じる。
ただでさえ、デジタルな世の中である。

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ユーザーをアンダーグラウンドに押し込めることは難しいし、そのマインド自体がおわってる。
たいていのユーザーはそういった詭弁やからくりを見抜いている。
見抜いた上で、通常、とぼけている。「このヒト、バカだなぁ」「この会社、セコイなぁ」と内心思いながら、「で、どうなるんでしょうか?」と深刻風情に問い合わせているだけだ。双方がその行間の機微がわからなければ、人間の営みとして厳しい。

安ければ安いに越したことはない。
しかし安さの反面でそのものの質や価値をちゃんと両天秤にかけられなければ、ただの弱いヒトだ。たいていのTV街頭にでてくるおばさまたちは両天秤が苦手なようだ。「もっと安くないと!」と仰る。
ダンピングが進んだトゥモローワールドを予見しないで平気で言う。 この話題は面白い。
「もっと美人じゃないとなぁ」「もっと高収入じゃないと」。分断は想像力のなさが起因する。
「もっとマシな首相じゃないとなぁ」。自分が首相になったら、国民を説き伏せようとするだろうか?

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仕事とはその価値にふさわしい対価であり、その価値を「ふっかけよう」とした時点で詭弁が発生する。その詭弁を単なる「ゲーム」や丁々発止の「やりとり」として楽しむ向きもあるだろう。
それ自体のストロングスタイルはボクも否定しない。 しかしそれは「愉しみ」でなければだめだ。
だれも愉しめない詭弁や対処、それがすなわち、相手を「敵」とみなす冷たいビジネスである。

そしてそんな、冷たいビジネスの大抵の場合が、既存ユーザーとの対話である。
なぜなら一度「ふっかけ」終えているからだ。

新たな「餅」を中の者に反映したくない、という浅はかさ。繰り返すがもう21世紀ですよ。
一枚はがせば一蓮托生だろうに。 そんな想像力欠如に襟元を正したい。
敵と話すことの体力消費を既存ユーザーとする。それを愚かだと考えられないことが本当にまずい。


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というようなことを、10年ぶりくらいに見返した「七人の侍」にギンギン感じる。
もう、そこには後ろだての企業すらないのだから。
「いざとなると、サムライはいないもんだな」とリクルーティング中、五郎兵衛はつぶやく。
この映画はパラダイムの闘いがテーマだ。兵法の鬼である久蔵をのぞく主演者のだれもが、各人に設定された想像力の壁にぶち当たりながら、現実の迫力に対処する作りになっている。「この米、けっして疎かにはせぬぞ」でようやくはじまる美談らしさは、美しいだけでは決して済まされない。

敵を内部に持つとミッションが成り立たなくなることを雄弁に物語るこの作品は、ボクが改めていう必要もまったくないが、マスターピースの度を超えてる。 映画の映画らしさとはひと通りのビジネスの圏外で真価を発揮する。 それは経済を扱っていても、ビジネスのただ中にあるヤクザ映画であれそうなのだ。