わが心のBlog

by Hiroki Utsunomiya

日本辺境論を読む

自分が演出・撮影・編集した映画で「Going For Sunday」(2004)という作品があります。


この作品はロンドンの映画祭「Japanese filmseason in London」(04)に選ばれて、ボクも駆けつけ会場でスピーチしました。そのときの、友人ヨッチが翻訳してくれた貴重なスピーチ原稿は残念ながら手元になく、うろ覚えでしかないのですが、その途中ボクはこのようなことを言いました。

「この映画には外国の強い存在が必要でした。
 日本人にはわかると思いますが、とくに白人が必要でした」

そう言った時、日本人の観客方からクスクスッと反応があったことを覚えています。
しかしその後帰国すると、あとからこんなメールが英語で届きました。


「なぜ白人の強い存在が必要なのか?
 日本人はなににコンプレックスがあるのか説明して欲しい」


ボクは結局、このメールに返信することがありませんでした。
英語でなんて言えばいいのかわからず途方にくれたのです。「私たち日本人は太平洋戦争に負け、それ以前からもそれ以後もコンプレックスがあり・・」
なんて言えばいい? それにこんなことを訥々と説明することで何かが解決するのだろうか?

——いやちがう、うそだ——。
技術面でも体系面でも自分の思いを英語で表現することができず、そんな観客からのメールをそのままにしてしまったのです。
欧米人の質問は本当に鋭い。
会場でもクリティカルな質問をされたのですが、それは秘密にしておきます。 とにかくボクはこの経験を忘れることができないのですが、改めて浮き彫りにしてくれた本がありました。


「日本辺境論」(2009) 内田樹・著
nihonhenkyoron.jpg

今週ブックオフで105円で買った本。
ハッキリ言って105円でこんな叡智あふれる本が買えるコトがスゴイ。
逆にブックオフに売った人の気が知れない。これは折を見て触れることのできる名著だと思う。

我々日本人は中華思想華夷秩序にとことん、よくもわるくも、支配されている。という本です。
自分ではない外部に「華」があり、辺境に住む者としてはその「華」の威光をキャッチアップすることが全てである。だから自らを「世界の中心」と思うことが敵わず、常にキョロキョロする民族、それが日本人である、とこの本は言っています。

中華とは封建時代では文字通り中国であり、現代では欧米の資本社会であり、とにかく対象は変われど、目指す礎の思想に変わりはない、と言っています。
この染みつきすぎた中華思想は「キャッチアップ=列強に追いつく」がすべてであり「追い抜いて次を指し示す」ことがあってはならない、想像すらしていない思想なのだ、と看破します。
ゆえに日本は、リーダーシップや新たなアイディアの発育、国際社会の先鞭に立つ意識すらない、とラディカルにこの本は言います。(この本の後半は、ではこのことを良く理解した上で納得して日本の特殊なイイ面も探っていこう、とします。)

まったく同意します。

同意できるトピックばかりがこの本にはあり、その言語化には驚くばかりでした。
たとえばボクは《ヤッパリマン - わが心のBlog》で日本語の「やっぱり」に注目しました。
「やっぱり」という言葉には被害者意識が染みついている、と感じたからですが、同時に、その問題点を言語化できるほどの体系をもちあわせていなかった。そんなモヤモヤした気持ちや、この日本を包むエーテルの正体をちゃんと看破している、その決定版が内田樹の「日本辺境論」でした。
たった今のボクも「内田樹」を使って、自分の持論を固めようとしている時点で、ショボいわけです。そしてこの「ショボい」という言葉がすでに、比較対象のある、華夷秩序に落ちているわけだ。

で、そういう整理整頓からまずははじめないと理解が進みませんよ、というものすごく良い本だった。そして「理解」や評価すら無縁の未開拓のモーメントをすすめ!とこの本は暗示してくれてます。



sikaban.jpg内田樹氏の本で「これも折をみて読み返そう」と所有している本の中に「私家版・ユダヤ文化論」があります。

今回「日本辺境論」を読んでいて「私家版・ユダヤ文化論」がダブりました。
すると巻末に本人が「この本のタイトルは『私家版・日本文化論』でもよかった」と書いていて、非常に納得しました。

この著者はわかりやすい言葉で強大な爆弾と思想性を投下します。
とても頭を使うのです。
先の「私家版・ユダヤ文化論」にしたって彼は80年代にかの、ユダヤプロトコルを訳した経験がある上で書いている、という驚愕の事実があったりして、それだけで信頼できる雰囲気があると個人的には思います。


この二つの本は、翻訳本が出ればいいのにとも思います。

外国人が日本を知りたかったら「日本辺境論」を読めば、完膚無きまでに日本がわかるでしょう。もっともこの本の中にも「ボク・私・(俺)」と「I」では翻訳不能だと指摘していて、移植が相当難しいのかもしれないけど有用です。

村上春樹は「世界文学」であり、司馬遼太郎藤沢周平は「ローカル文学」だという指摘も面白い。
実際、司馬遼太郎はわずか3冊しか英訳されていないらしい!(日本辺境論より)
そんな小ネタも満載。
まだ読んでない人はダマされたと思って、読んで考えて欲しい本です。