わが心のBlog

by Hiroki Utsunomiya

忘れる生きもの係

祭りというモノは魅力的な魔物だ。


それが成功する。
と、成功すべきだがその成功で、それまでのコンセプトの問題点をかっさらってしまう点がある。
私はそこが怖い
ただでさえヒトは忘れる生き物なのだ。

たとえば、花見。
もう今年の花見がどんなだったか。
憶えているだろうか?

次はGWでわーいという想念が今週末あたりからフィーバーするのだろう。去年は花見の自粛が新聞の記事にもなったというのに、私含め、ヒトは忘れてゆくのだ。


ヒトが忘れる装置を脳内に持っていることは、皮肉にも一方でときに素晴らしい。

臥薪嘗胆」という四字熟語。
意味は「成功のために苦労に耐えること」とある。でも本来の意味は「復讐のために、堪え忍ぶこと」であり「恨みや屈辱も忘れやすいから」が根底にある。

つまり薪の上で寝、苦い肝を嘗めるように毎日誓いを思い出さないとヒトは復讐さえできない。恨みや屈辱という強い意識であってもそれくらいヒトって忘れやすい生き物なんだよ、というのが基本の考えにある故事なのだ。

宗教もきっとそうだ。毎朝礼拝したり祈ることで、帰依心を固くする。
バイブルがあるのはヒトがその教えを忘れないためではないか。意地悪く考えると、宗教家はヒトが忘れゆく生き物だということにしっかりと戦略を持っていた、と言える。


忘れることは、ときに素晴らしい。
心のロッカーに全ての記憶が集積していて、すぐに100%リンクできるとしたら——。

ヒトは発狂するんじゃないかな。
きっと新たな出会いやスタートも恐れるだろうし、再会や再生もなにもないだろう。思念のモンスターにならない術と開放術をヒトは自然と身につけている。忘れる才能というものがある。

またその上で、忘れることの出来ない追憶と叡智がそのヒトの魅力を形作ってゆくモノだ。
それはそれで、なんと素晴らしくも複雑怪奇なことなのだろうかと思う。