わが心のBlog

by Hiroki Utsunomiya

忘れる生きもの係

祭りというモノは魅力的な魔物だ。


それが成功すると、成功してしまうと、成功すべきなんだけどその成功で、それまでのコンセプトワークの問題点をかっさらってしまう点がある。 僕はそこが怖い。 酒を飲まないシラフな考えだと思われても構わないけど、ただでさえヒトは忘れる生き物なのだ。

たとえば、花見。ナニ4月の暮れにそんなこと言っちゃッてんの? と言われたって構わない。僕は夏にだってクリスマスの話をしてみたい。TPOだのトーンを敢えてハズすことも一つの選択だ。
とにかく、花見だ。
もう今年の花見がどんなだったか、憶えているだろうか?
僕は行っちゃいないから説得力まるでないが、次はGWでわーいという想念が今週末あたりからフィーバーするのだろう。 去年は花見の自粛が新聞の記事にもなったというのに、僕も含め、ヒトは忘れてゆくのだ。

残念なことは、今年は春のゴーストに会えなかったことだ。 たぶん、あの日だった、と思う日があるけど仕事にかまけて立ち会えなかった。 さて、来年は会うことができるのだろうか——。

ヒトが忘れる装置を脳内に持っていることは、皮肉にも一方でときに素晴らしい。
臥薪嘗胆」という四字熟語、意味は「成功のために、苦労に耐えること」とある。
でも本来の意味は、「復讐のために、堪え忍ぶこと」で、さらに本来のコアには「恨みや屈辱も忘れやすいから」がある。 つまり薪の上で寝て、苦い肝を嘗めるように毎日を送って誓いを思い出さないとヒトは復讐できない、恨みや屈辱というただでさえ強い意識であってもそれくらいヒトって忘れやすい生き物なんだよ、というのが基本の考えにある故事なのだ。
宗教もきっとそうで、毎朝礼拝したり祈ることで、帰依心を固くする。
バイブルがあるのはヒトがその教えを忘れないためではないか。 意地悪く考えると、宗教家はヒトが忘れゆく生き物だということにしっかりと戦略を持っていた、と言える。


忘れることは、ときに素晴らしい。
心のロッカーに全ての記憶が集積していて、すぐに100%リンクできるとしたら——。
ヒトは発狂するんじゃないかな。 きっと新たな出会いやスタートも恐れるだろうし、再会や再生もなにもないだろう。 思念のモンスターにならない術と開放術をヒトは自然と身につけている。 忘れる才能というものがある。
またその上で、忘れることの出来ない追憶と叡智がそのヒトの魅力を形作ってゆくモノであり、それはそれで、なんと素晴らしくも複雑怪奇なことなのだろうかと思う。