わが心のBlog

by Hiroki Utsunomiya

ヤッパリマン

去年から「やっぱり」「やはり」「やっぱ」という言葉が無性に気になり出しました。


なぜ気になりだしたのかというと、去年のちょうどこの時期、インタビュー映像を編集していて、その語り手の口から出るかなりの数の「やっぱり」を聴いて、頭の中にリフレインしたからです。
「やっぱり私としては」「やっぱりそんなことあるじゃないですか?」「やっぱそう思うと」


なんだよ、やっぱりって!!


「やっぱり」。 この言葉につい思いを巡らしてしまった。
その時思ったのは、人が「やっぱり」「やっぱ」を使う時というのは、どこかしら予め強い他者に左右されてるような、言うなれば「被害者のコトバ」なんじゃないか? ということ。
その時の、素材としての語り手の印象がたまたまそうであったのだろうか。 とにかくその後、「やっぱ・やっぱりはコトバとして使わない!」と自分に課したのだった!


・・・と威勢良く決めたはいいがあのねー。 無意識にでるんですよ。 これが。


あ!今オレ言った! ということその後数知れず。完全に口癖か!ってくらい「やっぱ」連発。
意識すると禁句ゲームよろしく「あうう!」となる。 まだ発足1年目なので忘れるとすぐ出ます。
コトバって怖いなぁ、と思う。 しかし少なくとも最近はこのブログ上では使っていない。はず。

そんなこんなでネット上でこのコトバについて書いている人居るかなぁ?と思いググってみた。
そしたらこの方が、森本哲郎氏「日本語 表と裏」を引用して書いていたのです。
森本氏のその引用は「やはりとは日本の主語。お伺いをたてる強調詞」と言っていた。全く知りませんでしたが、買って読むことにします。 なんと26年前に出た本


森本氏の指摘を勝手にエールとして、僕なりの「やっぱり」談義を進めてみます。
たとえば、こんな比較をしてみる。 A君とB君は少しだけ違う返答をしています。


A 「やっぱ・・・・・・そうかもしれません」

B 「・・・・・・・・・そうかもしれません」


ではどちらのほうが、信頼に足るだろうか?
そうかもしれないことをA/Bともに言っている。 それにA/Bともに曖昧だ。
しかしAは間違うことを恐れている、と感じないだろうか? まるで外に正解があるように。
Bはその点自分の曖昧さに一点の曇りもない。 し、その点で自分の意志がほんのりと薫る。


A 「やっぱ・・・・・・お金がないとダメ?」

B 「・・・・・・・・・お金がないとダメ?」


この印象はどうか。
Aはお金に対して以前から恨みがありそうだ。 さらに、「お前もそうだろ? 違うの?」という同族意識を感じなくもない。 もしくは、いじけてそうにみえる。 返答する側もなんとなく「うーん、ダメかもね」という同情口調に転じるだろう。 同情とは引いては被害者意識への手向けではないか。
Bに至ってはもう、「ハイ、ダメです」と女子に一蹴されるのが相応しく、諦めもつく。 むしろ回答への恐怖を感じながらも逃げてないから爽やかさすら感じる。

AとB。 では自分はどっちの態度に共感するか、という話である。

「やっぱ・やっぱり」には、自分以外の、それも自分より上に価値基準があるように思う。
答えが外にあらかじめ用意されていて、へりくだって自分を押し込みながら自分外の共通認識を探ろうとする無意識が働くのではあるまいか。 と同時に、その外の回答が自分が敵わないと考える恐怖であり、そこからの逃避としての「やっぱ」使用———そういうことではないだろうか。
森本氏は仲間外れを恐怖とした上でのお伺いとしての用法と記しているが、それだけかな?
たしかに「やっぱり」にはその人がどのコミューンに属しているか/属したいかが示唆されている。 しかしその分、自分の主張を犠牲にして溶け込もうとしている点で、実はどうしても一抹の寂しさが帯びてしまっている。 僕はそこが気になる。 だからあえて「上」や「外」とした。 森本氏の書いた「内」にあった80年代ではない所で、現代の「やっぱり」慣用句の乱用は加速してかつ空虚だと思うからだ。



この推論の最後に実在の人物を思い浮かべてみます。
「やっぱり」をよく使う著名人として僕の記憶にあるのが、中田英寿氏だ。

「やっぱりサッカーの世界で日本というのは・・・・・・」
「やっぱり自国の文化を知らないと・・・・・・」 云々。 中田氏がメディアで言いそうなフレーズだ。
彼の場合どうだろう? サッカー界で名をなし30を前に引退し旅人となった中田氏。
彼は飄々と「やっぱり」を使う。 彼は成功者として特別扱いするべきだろうか?


いや。 例外なく彼の「やっぱり」も恐怖や見えない前提の壁に満ちていると僕は思う。
多くの鉄板システムを見て「やっぱり」。 自分が思う国際人に近づきたくて「やっぱり」。 そこにも独特の寂しさがついてまわる。 彼は自分を「世界基準」という名のコミューンに押し込むことで、旅を続けているのだろう。
その旅は皮肉にも自分探しの旅かもしれないし、彼から「やっぱり」が抜けた時にいったい何を語るのか? 非常に興味深くあると僕は思う。





明日。 今日でもいいけれど、みなさんも会話の中に出てくる「やっぱ」を拾ってみて下さい。 そこには自分や話し相手が何に恐怖しているのか、どのコミューンに居たいか、うっすら垣間見えると思います。