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わが心のBlog

by Hiroki Utsunomiya

NHK広島ドラマ 「火の魚」

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9月20日午後10時より、NHK総合でひっそりと放映された「火の魚」。
僕は放送10分ほど前にその存在を知り、なんとなく傑作の匂いがした、鑑賞した。

そしてそれはとても重力のある、傑作だった。

「なんとなく傑作の匂いがした」のはクレジットに「脚本渡辺あや 出演原田芳雄」の名があったこと、あとはいわゆる「芸術大賞」ウンヌンのハクも手伝っていたと思う。
とにかくそんな「匂い」がして、立ち会えたことに逆にホッと安堵できるほど、傑作ドラマだった。
白状すると久しぶりにドラマで脳天が痺れ、ショック状態となった。 だからその日の内に、Amazonで「月刊ドラマ2010.3月号」を購入した。 そこには「火の魚」の脚本が掲載されていると知ったからだ。

今日アマゾンから雑誌も届き(早いなー)、さっそくその恐らく「撮影稿」であろう脚本を読んだ。 オリジナルに接するとやはり、さらに解ることがある。
というか、オリジナルを読みたかったのは、現場とホンの違い、出来上がりと青写真の違いをどうしても知りたかったからだ。

この「火の魚」は傑作にかわりない。
そしてその、傑作たらしめているのはやはり、異能の才能達の交歓の成果だと気付く。

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渡辺あや×黒崎博×原田芳雄×尾野真千子×影絵作家(お名前は失念)。


脚本と演出と、主演者たちと美術のコラボレート。
この才能同士の「格闘」(彼らに言わせれば)が、このドラマに血と肉と迫力を与えている。 この中の一つでも欠けていたら、このドラマの重力は生まれなかっただろう。

無論、傑作に条件を付けるとすれば、当たり前の話だ。
ホンがよくて、演出が冴えて、主演がとにかくイイ。おまけに撮影も音楽も美術も良ければその作品は最高傑作となるだろう。 しかし、それは言うは易しである。
だって、まず「ホンがいい」ってどんな状態を指すだろう?
ナニが良くて何が悪いか、感想は誰しも言える。

しかし書く側はそんな良さを目指せない。
なぜならホンの良さとは、そんな良し悪しを飛び越えダイナミックな「思想」を持っていなければ出ないからだ。では「思想」を持っていたらそれでいいか? 違う。そこに「感性」と「手際」が必要になる。だから難しい。(視点とスキルと言ってもイイ。)


渡辺あや氏のこの脚本は読むだけでもめっぽう面白い。
骨格とモノローグの冴えは強烈にハンパない。 それは彼女の思想と感性と技術のたまものであり、ゆえに稀少品でもある。
そしてこれらの「思想←→感性・手際」のメカニズムは各セクションで問われてゆく。
演出家の思想と感性・手際。
出演者の思想と感性・手際。 ・・・・・・以下、ループ。
その全てが合致した時、ものすごい迫力となってお客・視聴者の前に提示されることとなる。

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僕の感想は、この方の指摘と似ている。脚本はタイトで簡素。デコレーションがない。
この簡素さは、演出と脚本を同時にこなす時は、たしかにありうるはずだ。
「これっくらいでいいや。あとは現場でやろう、私にはその自信がある」という風に。

しかし、予め映像への「のりしろ」を計算できる、というより、任せられるこの余白具合はスゴい。 たとえば、こんな一文。

「砂浜に巨大な一匹の龍が描かれている。」 ———以上。龍の描写なし。

しかし巨大な龍だ。 これは演出家にたいする公開スパーリングへの招待状だ。
逆に、演出上の設定や出演者の解釈が脚本よりも優れている箇所も、この作品には存分にある。 影絵の造形の素晴らしさも特筆に値するし、なによりパラダイムシフトへの重要な局面だった。 そういう格闘の全てが作品を高みに昇らせている。





追伸:たまにこういう「月刊ドラマ」のような雑誌を買うと、以前お会いした方々の活躍に触れることが多く、そのたびに特別な感慨をうけ、いい刺激をもらえます。