開高健のことばにこんなのがある。
書くとはなにか?
という問いに答えたものである。
「草原をまるで、断崖のように歩くことだよ」
作家開高健とはまさに80年代のアイコンのひとつだ。この言葉も何かの広告のタイアップだったと記憶する。むろん、いったいなんの雑誌から拾ったかなんて全く忘れているが、20年、へたすると30年前からこの言葉が脳裏に焼き付いている。折りにふれ思いだす、本当に大好きな言葉だ
草原を断崖のように歩く。
なんて美しい表現だろう。
草原を、恋人なら恋人らしく歩くだろう
生物学者なら生物学者らしく
ライオンならライオンらしく
作家は、草原を断崖のように歩く
一言一句。テなのかニでヲでハか。そのイチ文字自体が《断崖》なのだ。
句読点の位置すら奈落に繋がっていて、考え抜いた末に先入観なくその一手を決めるのだろう。
先日、「初舞台」というものを経験した。
初舞台。って出る方だ。
ほとんどの知人には口外せず、俳優としていくつかの役を舞台で演じた。自分の中のトライ&エラーの一環で、俳優のマインドを理解する上でもやっている。(もちろん以前から俳優の楽しさは思い知っているけれど。)
そこであらためて想うのも、この言葉だ。
草原を、断崖のように歩く
草原にいて、お前はどうあるのかということだ。
舞台を終えてみての感想なんて、むろんいくらでもどの角度でも延々とあるが、ここに備忘録として書いておきたいのは、その草原についてだ。
台本という、草原がある。
はっきり言って、フツーに、字面だけ追ってその草原を歩ききることはできるだろう。
が、お前はどうあるのかということだ
生物学者なら「この季節にこの虫は珍しいですねー」と草原でしゃがみ始めることだろう。地面を掘り出すかもしれない。恋人たちなんてそれどころではなく、相手の視線の先を奪うことでとにかく愉しく夢中だろう。ライオンならその空腹具合で、王様として君臨するか、なり振り構わず餌食を追うかを決めるだろう
だがそこにあるのは、同じ草原なのだ
こうも言い換えることが出来る。
舞台はスーパーマリオだ、と。
オレの偽らざる感想。
いや、舞台だけではない。映画、アート、すべてのクリエイティブへの視座でもある。
ほっといても解ける。
かなりの語弊を承知で進めるが、いくらトチっても大抵は「いい想い出」だろう。
もっと言えば、
役でいなくても解けるだろう。
時間さえ終われば解けるものだ、極端に言えばな。
なぜならこの世は「死」以外のことのほとんどは許容されるからだ。ましてや積極的に「生」を追うのが演劇であるなら当然だ。
繰り返すが、
《ほっといてもクリアする/できちゃう》ということ。台本を表面的に追ってもクリア出来る。
そういうものだ。
しかし、スーパーマリオなのだ。
どれだけウラ面に気づけたんだよ?
進めたのか?
どれだけコインを獲ったんだ?
ボーナスステージにいけたのか?
そっくり裏返そう
どれだけ裏面の存在に気づかず進んだんだ?
どれだけコインを獲り損ねてノウノウと進んだ?
ボーナスステージがあったことを知ってたのか?
ゲームプレイヤーなら。
どこに自分を据えるか、を決めるだろう、
やりこむのか、さらっといくのか。
しかし「さらっといくよー」などとかっこつけて、それでいてオートマティック(自動的)でなんの裏のボーナスステージの存在も気づかず終わるプレーヤーも実に多い。
もちろん個人の勝手なのだが、それは傍から見ていてすぐわかるものでもある。ゲームとはまさに、横にいる兄弟のものでもあるからだ。
「ああ。ここにこんなお宝があるのに
気づけないのねぇ、この人・・」
むろん新人公演としての許容量や幅もあったしオレにも初舞台だが、そこを主成分として与しない。
むしろ「今までの行いは間違ってなかった」と自分の解像度と思考を再確認できた。これが大きい。
詳しくは以前《いい演技とは何か》に書いた。
どんなベテランでもどんなに経験則があろうと、関係はない。草原を歩く姿勢についてだからだ。
ほっといたって、スパルタだって強引にであれ、自分が戯曲を理解してなくても、解ける。
結局その草原でどうだったか、でしかない。
何度でも繰り返したい
開高健は言った。彼にとって書くとは——
草原を、断崖のように歩くことだ